その1「厳しい父親に与えられたあの名作」 (1/5)
――蜂谷さんは小樽生まれの小樽育ちだそうですね。どんな幼少期を過ごされたのでしょうか。
蜂谷:小さい頃は本もいろいろと読んでいたんです。でもうちの父親が変わった人で、小学校4年生か5年生のときに『赤毛のアン』を読んでいたら「なんでそんな子供っぽいものを読むんだ」と取り上げられて、かわりに『罪と罰』を与えられたんです。
――ええっ。『赤毛のアン』を読むのは何の問題もないと思いますが。しかも『罪と罰』だなんて、子供向けのダイジェスト版か何かですか。
蜂谷:いえ、普通の大人向けのものを。「読んで感想を書きなさい」と言われて、もう読むしかない。それで、読書感想文の宿題もそれですませてしまおうと思ったんです。とっても嫌な子供だったので、いい点を取るコツは知っていたんですね。ラスコーリニコフがこうして、この部分で感動しました、などと入れるといいと分かっていたのでそのように書いたら、北海道の審査会に通って賞をいただいたんです。すると父はますますいい気になって『赤と黒』や『車輪の下』を押し付けてきて。『三太郎の日記』のような、哲学者が書いた本も与えられましたが、分からない言葉が出てきても人に訊くのはダメで、自分で漢和辞典を使って調べないといけない。だから......読書が大嫌いになってしまったんです、この企画に合わないことに(笑)。『嵐が丘』などは読んでいても怒られなかったので、早熟な友達と貸し借りしていました。小学校1年生の頃から新聞が友達でした。床に広げてはいつくばって読んでいたので、近所の人からは奇妙に思われていたらしいです。自分では憶えていませんが。
――教育熱心なお父さんだったのですか。
蜂谷:気まぐれなだけなんです。教育パパということではなく、外に熱中することがあると子供のことは構わないのに、ちょっとヒマだと子供に集中する。妹は逃げ足がはやかったのですが、私は足が遅かったんですよ(笑)。父には小学校6年生までの間に中3までの勉強をさせられました。因数分解もやったんです。和裁に使う長い定規があったので、すぐに答を書かないと叩かれる。一度、それで額が切れたことがあったんです。そうしたら母親は女の子の顔の傷を心配するより先に「物差しが血で汚れた」と言って。この親たちは何でしょうって思っていました。父は浅間山荘事件の時、もう学校に行く時間なのに行かなくていいからこれを見ろ、と言いましたね。君の人生が変わるかもしれない、って。それで、鉄球が山荘に激突する場面も見ました。とにかく変わっていたんです。今はもうだいぶ人間に近づきましたけど(笑)。
――じゃあ漫画やアニメなどは禁止されていたのでは。
蜂谷:『マーガレット』や『ガラスの仮面』を借りてくると、友達の本なのに捨てられました。だからお小遣いで買って返しました。漫画は家に持ち込めませんでしたね。テレビも『8時だヨ!全員集合』なんて絶対に見せてもらえなかった。映画は子供向けのアニメはダメでした。そうしたことへの反抗で、中学校に入ってからは全然勉強もしなかったし本も読みませんでした。高校時代もサッカー部のマネージャーをやっていて、校舎の中にいるよりグラウンドにいる時間のほうが長かったくらい。
――サッカーには興味があったのですか。
蜂谷:いいえ、同期の人になり手がいないからと頼まれて、自分で運動するのはだるいし、見ているだけならいいか、というノリで引き受けただけでした。でも今でもOB会をやっています。毎年みんなが里帰りする時期である8月の第二週にグラウンドに集まって、朝から晩までサッカー。東京にいた時は東京近辺の人間でOB会を作っていましたし。
――蜂谷さん、優秀なマネージャーになりそう。
蜂谷:いちばん好きなことが段取りですから。好きな四文字熟語は「優先順位」。作家にいちばん合わないタイプですね(笑)。