【今週はこれを読め! SF編】迷路を進むと〈薄暮〉が追いかけてくる。歴史も人生も。

文=牧眞司

  • ボーン・クロックス
  • 『ボーン・クロックス』
    デイヴィッド・ミッチェル,北川 依子
    早川書房
    5,390円(税込)
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 映画化された超大作『クラウド・アトラス』で知られるデイヴィッド・ミッチェルが、2014年に発表した長篇。世界幻想文学大賞を受賞した。

『クラウド・アトラス』に負けぬほど手応えのある一冊だが、内容や形式的にはだいぶ取っつきやすい。もっとも、この作者の小説だから、膨大な叙述のなかにこっそりと(むしろ「ぬけぬけと」と言うべきかも)企みを仕掛けているので、とても飛ばし読みなどできない。

 作品全体は六章で構成されている。

 第一章は1984年のイングランドの町ではじまる。主人公にして語り手は15歳の娘、ホリー・サイクス。LED ZEPと書いた革ジャンを着たボーイフレンド、その彼が買ってくれたトーキング・ヘッズのLP、授業で取りあげられる『蠅の王』、弟が読んでいる「ダンジョン&ドラゴン」......。あの時代を知る者にとってはおなじみのアイテムと、それらにまつわる雰囲気がこれでもかと書きこまれる。

 ホリーは歳相応にロマンチックで愚かだ。見栄張りで軽薄なボーイフレンドに目が眩み、母と喧嘩して家出をしてしまう。以降は、幻滅、流転、再出発、蹉跌......迷い道くねくねの青春である。そこで語られる大半はホリーの苦い成長物語だが、ときおり不思議なエピソードが挟まる。

 たとえば、家出直前に弟ジャッコに渡された厚紙製の迷路。ジャッコはホリーに「迷路を進むと、〈薄暮〉が追いかけてくる。それが触れたら、お姉ちゃんは存在しなくなる。だから、迷路をそらで覚えておかなくちゃダメだよ」と告げる。

 あるいは、ホリーが幼少のころからはじまった覚醒夢。じつのところ夢か幻覚か判然としないが、まるでラジオのように何者かの声が突然聞こえてくるのだ。

 そして、ボーイフレンドのために家出までしたのに、その男にあっさりと裏切られ(ほかに女がいたのだ)、失意で彷徨っているときに出会った、老婆エスター・リトルのおかしな挙動。彼女はホリーにお茶をふるまい、「保護施設が必要かもしれん。避難所だ。隠れ家だよ。〈第一任務〉が失敗したときのために、もっとも、きっと失敗するだろうが」と、予言めいた言葉を伝える。

 この第一章とおなじく第二章から第四章までも、リアリズム(饒舌な語りで内容的にも情報量が多い)が物語の主体をなすが、不意に不思議な、何かの暗示ともとれるエピソードが挟まれる。

 物語の構成もちょっと変わっている。

 第二章は1991年の物語。ケンブリッジ大学の学生ヒューゴ・ラムが主人公にして語り手となり、巧みに他人を踏み台にして利を得る、彼自身のソシオパス的サクセスストーリー(そして待ちうける転落)が綴られる。そして物語の中盤、ヒューゴとホリーの人生がつかのま交叉する。

 第三章は2004年で、主人公・語り手は戦争ジャーナリストのエド・ブルーベック。第四章は2015年で、主人公・語り手は小説家クリスピン・ハーシー(かつては英国文壇の寵児でいまは落ち目)。どちらの章も、ホリーが重要な脇役として登場する。

 第一章~第四章まで登場人物がどんどんと増え、それらが思わぬかたちでつながっていたり、かなり複雑な人間関係が広がっていく。デイヴィッド・ミッチェルが恐ろしいのは、ただ表世界の関係を構成するだけではなく、隠れている「裏地」に壮大な脈絡を張りめぐらせているところだ。『ボーン・クロックス』全篇を読みおえたとき、その「裏地」模様の全貌がわかるのだが、読んでいるあいだは断片的に透けて見えるだけである。読者は、夜空に点々と光る星をつないで星座をつくるように、自分の想像力だけを頼りにその図を描く。しごくスリリングな読書体験だ。

 第五章の舞台は2025年、物語は一挙に転調する。それまでリアリズムが基調だった「表地」の世界から、スーパーナチュラルな「裏地」が前面に出る。奇妙な生まれ変わり能力を持つ「時計学者(ホロロジスト)」たちと、実質的な不死を可能にした一派「隠者(アンコライト)」の死闘だ。その趨勢にホリーが重要な役割を果たす。そこへ至る経緯が、第一章から第四章までの細部でふれられていたことを、読者は知る。

 第六章は2043年、資源枯渇のディストピアが舞台だ。主人公にして語り手はふたたびホリーである。七十歳を超えた彼女は、孫娘ローレライとアラブ系難民の少年ラフィクと暮らし、新しい苦境に直面する。壮大なファンタジイは第五章でいったん結末がついたけれど、ホリーの人生の物語はまだつづくのだ。

(牧眞司)

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