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3月22日(火)

 8時出社。昼まで必死にデスクワークをこなす。
 1時、タイムズレンタカーで借りたスイフトにこれでもかとダンボールを満載し、浜本の運転で「本のフェス」の納品。各出店社の本を並べていると自分で買いたくなる危険度満点。明日はお金をたくさん持って出社しよう。

 18時終了、直帰。息子とウイイレをしようと勇んで帰ったものの、息子も娘もナイター練習。仕方なしにつけたテレビ「みんなの家庭の医学」の「長引く治らない症状 本当の原因をもう1度探ります!~名医のセカンドオピニオンSP~」というのに夢中になる。宮田珠己さんの足も診てもらいたい。

3月18日(金)

 高校の入学説明会。
 私が参加する必要はまったくなかったのだけれど(結果として教科書を持ち帰るのに役立った)、制服採寸と説明会の間に学食が利用できるというので、28年前のソウルフードを味わうため、会社を休んで参加する。

 学食はもちろん教室に入るのも卒業以来で、校舎に一歩入った瞬間から忘れ去っていった記憶がまるで赤血球や白血球のように血液の中を流れ、張り巡らされた毛細血管で爆発し、震えが止まらなくなってしまう。飲み込んだ息を吐き出すのも忘れ、気づけば涙があふれる。娘と妻から「恥ずかしいから帰って」と叱られるが、そこかしこに18歳の私がおり、友だちがいた。

 一番感動したのが廊下だった。
 その廊下はどんずまりの隔離教室の前の廊下なのだが、私はいつもそこで昼休みになると野球をしていた。どこかに転がっていたボールとプラスチックのバットでかなり真剣に毎日毎日野球をしていたのだ。

 もちろんそこは教室の前の廊下だから人通りも激しく、みんなから迷惑がられ、先生からも何度も何度もこんなところで野球をやるなと怒られたのだけれど、我が物顔でボールを投げ、打ち込んでいたのだ。

 28年ぶりに立ったその廊下は、こんなところで野球をやっているやつがいたら羽交い締めにしてロープでぐるぐる巻きにし、外に捨て置きたくなるほど狭かった。18歳の私はいったい何を考えていたんだろうか。

3月11日(金)

 震災三週間後、中学校の教員時代に勤務していた気仙沼を訪れ、言葉を失うということの本当の意味を知り、小説なんてありえないと思った作家が、夏に訪れた函館で佐藤泰志『海炭市叙景』(小学館文庫)と出会い、もう一度小説を信じることで、書き上げた熊谷達也著『希望の海』(集英社)。

 集英社の特設サイトに記されている「失くした言葉の先に」というエッセイを読んで震えた。あわてて本を買い求め、読み始めたら、港町仙河海市で暮らす人々の喜び、悲しみ、苦しみ、希望、絶望が圧倒的なリアリティで描かれていた。

 これはまさに『海炭市叙景』の世界であり、あるいはまた乙川優三郎の『トワイライト・シャッフル』(新潮社)でもある。ドラマなんてなくても物語はあるのだ。ただこれらの作品とひとつだけ違うのは、仙河海市にはあの震災が訪れることだ。圧倒的なドラマが介入される。しかしそれは描かれない。

 そして描かれるのは震災後のこれまた「暮らし」だ。昨日があって、今日があり、明日が来る。『希望の海』は、「失くした言葉の先に」産み出されたすごい小説だった。

3月10日(木)

 9時を過ぎ、すぐにかかってると思っていた電話が鳴らない。私のスマホも妻のスマホも着信の知らせは届かず、スリープ状態のままだった。
 公立高校の合格発表を見にいった娘からなんの連絡もなかった。

「やっぱりダメだったか......」

 踏ん切りをつけるように口にして階下へ着替えにいく。おそらく自分の番号がなくて連絡して来られないのだろう。

 一週間前、公立高校を受験した娘からは「傾向が変わっていて死んだ」というメールが届いた。居ても立ってもいられなくなり、これまでお参りしていなかった学業成就の湯島天神へ会社の帰りに立ち寄った。その晩、帰宅するとちょうど塾で自己採点してきた娘と一緒になった。娘が採点結果のことを口にすることはなかった。

 娘がどこの高校に進学しようとどうでもよかった。公立高校だろうが私立高校だろうがどちらでもよかった。学校なんてどこに行ったって一緒だと思っていた。
 だた、娘が悲しむ姿を見たくなかった。

 昨日の夜まで妻も娘と一緒に合格発表を見にいく予定だった。それが布団に入る頃には受験した高校のある駅まで着いていくことになり、まぶたを閉じる頃にはひと駅手前の乗り換え駅のスタバで待っていることになった。そして今朝になって一人で行くからパパもママも家にいてと言ってきたのだった。

 公立高校に落ちたら、私立高校に入学金をすぐに振り込まなければならなかった。その振り込みのために私は休みをとって待機しているのだ。3月だというのに外は冷え込んでいた。ジャンバーを羽織って居間に戻るが、妻はスマホを握りしめたまま目をつぶっていた。

 昨夜、娘は何度も何度も寝返りをうっては、ため息をついていた。この一週間、娘のすすり泣く声で何度も起こされていたのだ。

 合格発表は9時からだった。たくさんの人が学校の掲示板の前に集まり、掲げられた番号に注目しているのだろう。受かっていても、受かっていなくてもすぐに連絡するよう言ったのに、まるで電話がかかって来ない。電話ができないならせめてメールでもしてくれればいいのに、それすらなかった。自分の番号がなく、うずくまって号泣している姿しか思い浮かばなかった。

 9時9分、家の電話が鳴った。私か妻のスマホにかかってくるとばっかり思っていたので、慌てて立ち上がり、電話まで駆けていった。

 妻が受話器をとる。
 すぐに頷くかか首を振るかジェスチャーでわかると思ったのに、妻は苛立たしげに大きな声を出した。

「えっ? 何? 聞こえない」

 妻の声が部屋に響く。

「落ち着いて! 何を言ってるのかぜんぜんわからないのよ」

 娘の泣き叫んでいる姿が浮かんだ。

「えっ? 受かったの? 番号あったの? そうなの......。おめでとう......」

 涙ぐむ妻が、受話器を渡してきた。耳に寄せると向こうから激しい嗚咽が聞こえてきた。

「受かったのか?」

 涙でとても声にならない。

「合格の書類はちゃんともらったか」
「......うん」
「気をつけて帰るんだぞ」
「うん」

 受話器を置くと、妻と顔を見合わせた。どちらかともなく「よかったね」と言葉をかけあった。

 用意していた銀行の通帳や印鑑を片付け、自転車の鍵を手にした。もう確認する必要もない合格発表を見にいくと告げると、妻は私も行くと言って、出かける支度をした。

 娘が合格したのは私の母校だった。いつの間にか高校見学会に行き、志望校にしていた。もっと家から近い高校もあるのになぜこの学校を選んだのだろうか。

 28年前、毎日通った道を歩いて高校へ向かう。高校卒業後に出会った妻とこの道を歩くは初めてのことだ。

 駅前は再開発され、区画整理されたおかげで知らない道ができている。それでも昔の面影をみつけては、とめどなく思い出を話した。妻は煩わしそうだったけれど、止めることができなかった。まだこんなに妻に話すことがあったのだと驚きもした。

 28年ぶりに門をくぐった学校は当時のままだった。あるのがわかっている娘の受験番号が記載された掲示板を見た後、しらばく学校内をうろつく。

 まさかここにもう一度来られるとは思いもしなかった。決していい思い出ばかりではないけれど、ずっと来たいと思っていた場所だった。あの頃の自分に会いたかった。

 会わせてくれたのは娘だった。

3月3日(木)

 高田馬場の芳林堂書店さんを訪問すると、ちょうど新しい取次店から番線(流通上のコード)が配布されたところだった。これで一ヶ月ぶりに本を届けることができる。

 この異常事態の間、本が入らなくても売り場を整え、お客さんからたくさんのクレームを受けながらも、店を開け続けてきた書店員さんに胸の内で拍手する。

 夜、会議、イベント、勉強会の司会、結婚記念日とダブル・ブッキングどころかクアドラプル・ブッキング。会議は浜本と浜田に、イベントは宮里と松村にそれぞれ任せ、私は勉強会の司会に勤しむ。結婚記念日の代役は紀の善の抹茶ババロア。

3月2日(水)

 朝、いつもと逆方向の武蔵野線に乗り、南越谷駅で下車。東武伊勢崎線が正常運行していことを確認し、公立高校受験の娘に親指を立てて、別れる。「グッドラック!」祈ることしか出来ない。

 夜、湯島天神にお参りして帰宅。

3月1日(火)

昨日で締め切りとなった第13回本屋大賞二次投票のFAX投票を打ち込む。

2月29日(月)

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 夜、新木場の「Studio Coast」へ。いまこの世で最も美しい音楽を奏でていると思っているBon Iverのライブへ。

 あのたくさんの音が重なり合い、奇蹟的に調和のとれた大きな流れとなるサウンドをライブで再現できるのか期待と不安を抱えていたのだけれど、それぞれが様々な楽器を演奏する8人編成のバンドから一曲目の「Perth」が演奏された瞬間、そんな不安は一気にぶっ飛ぶ。気づけば放心し、涙が止まらない。

 満員のStudio Coastはもはやこの世ではなかった。まるで天国にいるような1時間半。これまでの人生で一度も体験したことのない感情に襲われる。

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