6月21日(火)

 西村賢太さんに初めて相対したのは「苦役列車」が「新潮」に掲載された頃でした。おそらく2010年の11月か12月で、場所は西村さんご指定の四谷三丁目の焼肉屋でした。

 その前年の『おすすめ文庫王国2009』で西村さんのデビュー作『どうで死ぬ身の一踊り』を文庫の1位に選んでおり、その後、ファクシミリの原稿依頼でもって、「本の雑誌」2010年8月号で「私のオールタイムベストテン」の原稿を頂いておりました。

 初めてお会いする西村さんは噂通りの大きな身体で迫力がありました。小説の通りであれば、余計なことを言ったら一気にプチ切れられるのではなかろうかと僕はたいへん緊張し、美味しいはずの肉もあまり喉を通りませんでした。

 ただ読んだばかりの「苦役列車」の素晴らしい出来に「この作品で芥川賞を獲れるんじゃないですか」などと軽口を叩くと、単行本で同時掲載になる予定の「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」のほうが自分は気に入っており、こちらのタイトルで単行本にしてほしいと新潮社に言っているがダメらしいと憤りを口にしていたのを覚えております。

 年が明けて「苦役列車」で第144回芥川賞を受賞しました。その晩、ファクシミリでお祝いメッセージを送りましたが特に返信はなかったものの、2011年7月号で、私小説の特集を組む(私小説が読みたい!)ので原稿を依頼すると快諾いただきました。しかし待てど暮らせど原稿は届かず、確か何か別の原稿で穴埋めしたのでありました。

 それから数年は年賀状のやり取りが続いていたものの、芥川賞を受賞されて西村さんはどんどんと忙しくなり、もはや「本の雑誌」が関われるような作家ではないだろうと原稿依頼することも連絡することも途絶えておりました。

 そうして5年の時が過ぎ、「本の雑誌」2015年12月号で「太宰治は本当に人間失格なのか?」というダメ作家の特集を組むこととなりました。その際、坪内祐三さんが対談相手として西村賢太さんを指定してきたのでした。

 自分としてはしばらく距離をおいてしまっていたのでいまさら会うのも気が引け、どうしたもんかと悩みましたが、坪内祐三さんのリクエストを聞かないわけにもいきません。

 また誌面としてはお二人がダメ作家について語り合うというのはたいへん面白い内容になること間違いなしでありますから、対談場所を坪内祐三さん御用達の神保町の「げんぱち」とし、二人の対談を収録することになりました。

 そこで僕は西村さんと5年ぶりの再会を果たし、ここのところのご無礼を謝り、西村さんからもそろそろ「本の雑誌」でなにか書こうかと声をかけていただき、後日、鶯谷の信濃路で打ち合わせすることになったのでした。その際、私を挟んで隣のお客さんと西村さんが喧嘩をはじめてしまい大変なことになったのですが、それは別の話なのでここでは割愛いたします。

 さて、どんな連載を始めるか──というところで、実は2011年に焼肉屋さんで相対したときに、僕は一本の企画を挙げておりました。それがこの『誰もいない文学館』(当時タイトルはありません)で、西村さんがこれまで大切に読んできた作品を一冊ずつ取り上げていく、ある種、村上龍の『料理小説集』のようなものというのを打診していたのでした。(もちろん西村さんには村上龍の話はしていません)

 信濃路のやたらに濃いチューハイを飲みながら、改めて西村さんにその企画の話をすると、実はそれは講談社の「小説現代」で始めることになっていて...と頭をかきかき言われました。

 企画に特許があるわけではありませんから仕方なかろうと、ならば書籍ではなく筆跡から作家について綴る「文豪ばかりが作家じゃないと、いつか教えてくれた人たち──幻の筆跡を通じて」を西村さんから提案され、連載スタートすることになったのでした。

 こちらの連載は結局、同時進行している「小説現代」の「誰もいない文学館」と内容がかぶることになり、やっぱり書き進めることができないと5回で終わってしまったのですが、「誰もいない文学館」は28回を書き切り、それは私が読みたかった西村さん以外に書けない、濃く、深く、熱い書評集になっておりました。

「誰もいない文学館」の連載を終えた頃「いつ本になるんですか?」と西村さんに尋ねると、まだ少し分量が足りないのであと4、5本足して本にしますよと答えていたのですが、それから3年半が過ぎた2022年2月5日に、西村賢太さんはこの世を去ってしまいました。

 西村さん急逝の報を受けて、一番最初に考えたのは「本の雑誌」で追悼号を作ろうということでした。その次に思ったのは、『誰もいない文学館』は本にならないのだろうか?でした。

 浜本を通じて連載元である講談社に確認すると、講談社では本にする予定はないということでしたので、すぐさま単行本化することに決めました。

 図書館に行き、掲載誌を全回分コピーすると、一文字一文字原稿を打ち込んでいきました。いつもなら助っ人アルバイトに作業させるのですが、こればかりは自分ですべて打ち込みました。

 それは実はこの間、自身の限界で西村さんと距離を置いてしまったダメ担当編集者としての償いの気持ちも大きかったのです。僕はあなたと上手くお付き合いすることはできませんでしたが、作品はいつも、いつまでも愛しておりました、と思いを込めながらコピーをめくり、指を動かしていきました。

 一人の作家の方から、自分が思い描いていた原稿を頂戴するのはとても大変なことであります。
 そしてそれを一冊の本にまとめあげるのは、さらに大変なことです。

 西村賢太といえば私小説!ですけれど、誰よりも書物を愛し、書物によって人生を切り拓いた人でありますから、この最愛の書を掲げた書評集は西村賢太さんのB面の代表作ともいえるでしょう。『誰もいない文学館』を刊行できて本当によかったです。

 賢太さん、不甲斐ない担当編集ですみませんでした。そして、ありがとうございました。

4月28日(木)

 内澤旬子さんの『カヨと私』の装幀をお願いしている松本孝一さんのところへ色校をお届けす。合わせて、その次の本の本文組の相談など。Jリーガーの次に今、最も憧れる職業である装丁家の方とお話するのはとても楽しい。


★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(13)

【茶木則雄(当時:ときわ書房本店、現在:書評家)の回想】

 本屋大賞立ち上げのための会議に参加するにあたって、私はあらかじめ二つのことを心に決めていた。

 ひとつは、一回目の会議で必ず決着をつけること。

 そもそも書店員は(想像以上に)忙しいうえ、シフトの関係で日程を調整するのが難しい。皆さん優秀で一家言ある人達が集まった多人数の会議は、会を重ねれば重ねるほど、収拾がつかなくなる虞がある。だから最初から一発勝負で、と考えていた。

 二つ目は、選考過程の透明化、公正化をどう担保するかだ。単なる人気投票に終わっては、「これこそ書店員の選ぶ今年一番面白い本だ」という賞の創設意義が問われかねない。

 そこで、議題が具体的な選考過程に及んだとき、私はかねて用意した腹案を提示した。

 候補作は全国の書店員のアンケートで10作程度に絞り、最終選考においては参加者全員が候補作をすべて読んだうえで投票する。全部読んでいない人は投票に参加できない。というものだ。さらに、読んだという証明のため、参加者は10作すべてにコメントをつける。と、そこまで踏み込んだ。

 当然、反対意見が様々あった。

 曰く、候補作が出そろい最終投票までの一か月程度で、忙しい書店員が10冊すべて読むことは不可能だ。

 曰く、それを強制しては、参加者が極端に限られてしまう懸念がある。

 曰く、読んだという証明を求めるのは失礼ではないか。

 そんな感じの意見であったと記憶している。

 おっしゃることは、すべてごもっともである。現場の忙しさは私も長年経験して痛感している。こういう厳しい基準を設けると参加者が減る可能性が大いにある。また、読んだかどうかの証明に至っては、失礼極まりない。

 しかし、公正性と透明性を担保するにはこれしかない、と思っていた。

 予想された通り、議論は紛糾した。厳しい口調での文言も飛び交った、と記憶している。

 その度に、為せば成る、という意味のことを私は発言した。ときに、為さねば成らぬなにごとも、という意味のことを口走った、ような気もする。ついには、成らぬは人の為さぬなりけり、と机を叩いたような気が、しないでもない。

 いまや「昨日なに食べた」と訊かれても困惑する私である。20年前の記憶が曖昧なのは致し方ないところだろう。

 とまれ、激しい議論の行方を眺めながら、「これは成功したな」と内心ほくそ笑んだ。

 意見の相違はあっても、全員が前を向き、新しいものを自分たちの手で作り出そうという、熱意に満ち溢れていたからだ。

 細かな修正はあったが、最終的に、私の提案したフレームが落としどころになった。アメリカの陪審員裁判と同じように、全員一致の評決であった。

 と、あやふやな記憶で書き綴ってきたが、ひとつだけ鮮明に覚えていることがある。

 その後の打ち上げ席だ。ここは幕末の松下村塾か適塾か、というほどの気概と熱気の中で飲む酒が、すこぶる旨かったことは、いまでも脳裏に焼き付いている。

4月27日(水)

  • 「毎日の部活が高校生活一番の宝物」 堀越高校サッカー部のボトムアップ物語
  • 『「毎日の部活が高校生活一番の宝物」 堀越高校サッカー部のボトムアップ物語』
    加部 究
    竹書房
    1,760円(税込)
  • 商品を購入する
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    HMV&BOOKS
    honto

 晴れ。夏のよう。9時に出社。

 午前中デスクワークの後、1時に7月号ルポルタージュ特集のインタビューのため、丸善丸の内本店の「M&C Cafe」へ。1時間半みっちりお話を聞く。堪能。

 15時会社に戻り、お腹が減ったので久しぶりにうどんの「丸香」へ。行列は10人程度。5分ほどで入店でき、大きくぶ厚いお揚げがたまらぬきつねうどんを食す。うどんもちもち、汁は香り高く何度食べても美味しい。

 16時より社内にて7月号ルポルタージュ特集の対談。こちらも1時間半みっちりのお話で堪能。

 対談者と食事に行く浜本と新人前田の背中を見送りつつ、ACLグループステージ、セーラーズ戦をDAZNで観るため急いで帰宅。6対0の大勝利に久しぶりにスッキリ。

 いい気分のなか、今日買ってきた加部究『毎日の部活が高校生活一番の宝物 堀越高校サッカー部のボトムアップ物語』(竹書房)を読む。
 

★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(12)

【林香公子さんの回想】

 第一回目の会議の頃、何を考えていたか、ということで思い出してみたのですが、売場で自分が出来ることは精一杯やってるつもりだったので他の人が売ってる本はどうして売れてるのか知りたかった。

 売れると思ったポイントはどこなのか、私が気づいてないいいところを理解し、アピールすれば自分の店であんまり売れないこの本はもっと売れるんじゃないか? もちろん、大成功例は出版社さんより教えて頂いたり、なんなら複製ポップをいただいたりしていましたが、そこまでじゃない話を知りたいものよねー。

 といったことや、個人の好き嫌いや善し悪しといったセンシティブさに触れる話じゃなくてもっと仕事の面白みとしての本とその中身の話をする場が選ばれし者しか集えない会合や飲み会とかじゃなくて希望したら誰でも参加できる形であったら素敵じゃないかとか、だったかと思います。

 そんな気持ちだったので、他の人に売りたい本について聞けるんなら無理に順位はつけなくてもいいと思ってましたが順位がないことには人を動かす形にはならないというのもそりゃもっともな話でして。会議が進むにつれての後戻りできない感に面白いとは思うけどどうしよう? と青ざめる気持ちも若干。

 とはいえ、まぁミーハー心だけで本屋に入り、右も左もわからないのをいいことに直木賞が受賞作なしだなんてその分の売上どうやって作れというのか、だの重版のタイミングがどーのこーの、などとそれまで好き勝手を言ってたことに対し、ここらで、役に立つ行動の一つもとってみろ、と突きつけられてたわけですから。

 今まで何も考えずに口を開いててすいませんでした、と心の中であやまりつつ自分らで決める以上、不満なんかないようにしなきゃ、ってな、やけくそパワーがすごかったんだよな、確か。

4月26日(火)

 晴れ時々雨。9時半出社。

 内澤旬子さんの新作『カヨと私』のイラスト部分の色校が出てきたので、しばし眺める。二色刷りで印刷されたヤギたちが、美しく、そしてかわいい。内澤さんとデザイナーの松本さんのスケジュールを調整しつつ、チェックの日取りを決める。

 午後、高野ひろしさんのやっている「ペンギン堂雑貨店」へ初訪問。ベンギングッズのコレクターだと思っていたら、いやはやこんな立派なお店を構えていらしたとは。ペンギンの話はもちろん、本業であるガラス屋さんの話、そして代々住み暮らしている東京の話を伺う。

 夜、ご無沙汰していた書店員さんからメールが届く。内容は、早見和真の『八月の母』(KDOKAWA)がどれだけ面白かったかということで、実はその書店員さんから『イノセント・デイズ』を激推しされ、私は早見和真を読み始めたのだった。それが時間が経ってまたこうして新作の話で再会でき、こんなうれしいことはない。本の持つひとつの力だ。


★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(11)

【藤坂康司(当時:丸善お茶の水店、現在:名古屋市志段味(しだみ)図書館館長)】

 1980年代後半広島のフタバ図書で働いていたころ、当時は珍しかった、会社の垣根を超えた書店員同士の飲み会をしてました。啓文社の児玉さんを誘ってわざわざ尾道から広島まで来てもらったこともありました。

 その後丸善に転職してからは福岡、京都、名古屋でその町の書店員さんたちの飲み会に参加してました。お茶の水の丸善に異動したときも、おなじように「面白い=すごい」書店員さんを古幡さんに紹介してもらおうとおもったわけです。

 その飲み会のあと、何日かたってからお店に杉江さんから電話があって、「書店員さんたちのつくる賞をつくろうと思うので、藤坂さんも参加しないか?」と誘ってもらいました。が、実は半年後に丸善を退職し書店員でなくなることが決まっていたので、そのことを杉江さんにだけお話して、半年間だけお手伝いをすることになりました。

 博報堂さんでの会議に何回出席したか記憶が定かではありませんが、新しい賞の名前を「本屋大賞」とすることと、投票をインターネット経由とすること、書店員である証拠として取次の番線と書店コードを記入してもらうこと、発表のときに店頭に受賞作がならぶこと、とか決めたことを覚えています。茶木さんが「打倒直木賞」とか話されてたと思いますが、個人的にはそういう過激な表現はやめてほしいなあと思ってました。

 あと、書店員が投票で決める賞にどういう本が選ばれるのだろうかと、まったく想像できなかったこと。どんな本が大賞になっても、その横に書店員の「私の本屋大賞」本を並べて売ってほしいなと思っていました。

 そして、一番強く思ったのは、この賞の話がもっと早い時期に立ち上がっていて、お誘いがあったら、転職しなかっただろうなということです。

 結局半年後に偕成社に転職し、退職するまで一度も本屋大賞にはスタッフとして参加することはありませんでした。

 退職後、図書館員になったとき、本屋大賞実行委員に復帰しないかと声をかけられたのは嬉しかったです。16年ぶりの復帰でした。

4月25日(月)

 晴天。昨日のinterFM「Barakan Beat」で出てることを知ったライ・クーダーとタジ・マハールの『Get on Board」を聴きながら、9時に出社。

 9時半よりZoomにて本屋大賞の反省会。11時より北上次郎さんとZoomにて「北上ラジオ」収録。Zoomありがたし。

 5月8日で建て替えのため一時閉店となる三省堂書店神保町本店さんに「いったん、しおりを挟みます」という秀逸なコピーのバナーが掲示される。

 自分にとって三省堂書店神保町本店は営業の面白さを教えてくれた原点であり、ここのメディカルブックセンターにて私の営業マン人生ははじまったのだった。

 当時御茶ノ水の駅前にあったクインテッセンス出版という歯科学を専門とする出版社に、22歳のまったく別種の専門学校を卒業し毎日パチスロをしていた馬の骨である私が奇跡のように採用となった。ただし憧れていた出版業とはいえ、それは目標だった編集ではなく、営業という最も忌み嫌っていた職種に就くにいたったのだった。

 忌み嫌おうがなんだろうが、拾っていただいた馬の骨である私は一生懸命働かねければならないと、担当として渡された書店や大学生協を廻ることになるのだが、その中で、特に最も歯学書のみならず医学書を興味を持ち夢中になって売っていたのが、この三省堂書店神保町本店のメディカルブックセンターだったのである。

 正直いえば私は自分が売っているものがなんだかわからなかった。またどれくらいそれが読者のためになるものなのかも理解できていなかったのだけれど、ここメディカルブックセンターに通ううちにそんなことではダメだと気づいた。メディカルブックセンターのMさんやHさんにきちんと話せるような人間になりたいと願い、少しずつ少しずつ自社の本に興味が持てるようになり、編集の人に内容を聞いたり、学会で耳をそばだてるようになっていったのだった。

 そうしていつの間にか信頼とまではいかないけれど、おもしろいやつくらいに思っていただけるようになり、メディカルブックセンターにて大々的にクインテッセンス出版の全点を置いたフェアをしていただいたのだった。それにはもちろん営業部の部長やら課長の協力も得て、図書カードかなにやらの特典も用意し、会社としても若い営業がなんだか夢中になってやってるからいっちょ少しやらせてみるかみたいな雰囲気になり、そうしてお前の好きなようにやってみろと初めて任された大きな仕事だったのである。

 今となっては売り上げがどれくらいだったのかとか本当に貢献できたのかわからないけれど、とにかく僕はそのときはじめて営業って面白いかもと思い、その後、28年営業を続けることになり、どうにか馬の骨から出版営業マンとなれたのであった。

長谷川晶一『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)
本並俊司『マイホーム山谷』(小学館)

 を買って帰る。


★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(10)

【白川浩介(当時:オリオン書房ノルテ店、現在:リブロプラス商品部)の回想】

 本の売上を生活の方便とする身からすれば不遜な話ではありますが、書店員になる前は平台一等地を占める「ベストセラー」には興味がなく、書店の利用法といえば自分の興味関心のある本を書棚で探すだけでした。書店員になって仕事として「ベストセラー」の重要度を認知するようになったものの、たまたま勤務する書店が、そばに圧倒的な集客力を誇る駅ビル内にある競合店(幸いなことに自社)があることを良いことに、その店との差別化を図る意味でもベストセラー以外の売上を稼ぐというスタンスの店だったので、仕事としても相変わらずベストセラーを追いかけるより地味に売上が上がる銘柄を見つけてチビチビ売って一人でニヤけているような男でした。

 とはいえ、杉江さんから賞の創設のミーティング参加のお誘いメールをいただいた時は、なんか面白いことが始まる!とわくわくしたのをよく覚えております。わくわくしつつも、第一回目の会議の時から「ベストセラー創生」には後ろ向きで、「1冊を選ぶんじゃなくて複数冊で、フェア展開でも......」などと言って同業の先輩(茶木さん? 藤坂さん?)から怒られた記憶があります。今から思えば甘ちゃんです。

 話し合いを重ねるうちにこの活動にのめりこんでいく訳ですが、(自画自賛にもなりますが)中野さんも書いておられます通り集まったメンバーが本当に建設的かつ頭の回転と手が早く、物事がどんどん決まっていくこと、そしてこれまで知り合うすべもなかった広告業界の方と真剣にお仕事の話が出来たこと、そして、出版社や取次の方たちと、お互いの立場を想像し敬意を抱きつつも妙な立場バイアス(取引先と被取引先)抜きの対等な立場で真剣にお話できたことが大きなモチベーションになりました。

 本屋の店頭からベストセラーを作る、となると、自分の店単位の発想しかできなかった(何部仕入れて、××の売り場にフェイスはこれぐらいで積んで、手書きのPOPとパネルと...といった、規模は小さくても大事な事を積み上げていく方法)のですが、他業種の方の、最初から完成した大きな絵を描いて、現実とのギャップを知恵と工夫で埋めていくという手法も大いに学ばされ、刺激になりました。毎回のミーティングのたびに新たな発見と見識が得られた、幸せな時代でした。

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