3月29日(金)
窪美澄『アニバーサリー』(新潮社)読了。
窪美澄は著者略歴に記載していただいているとおり、デビュー作『ふがいない僕は空を見た』を<本の雑誌が選ぶ2010年度ベストテン>の第1位に選んでおり、選んだからには面白かったという太鼓判とともに、その後の作品に期待していたのであるけれど、正直に言うと、後に出版された『晴天の迷いクジラ』(新潮社)も『クラウドクラスターを愛する方法』(朝日新聞出版)も私にはピンと来なかった。
いやそれはデビュー2作目、3作目にしてはものすごくよく書けていた。書けていたけれど、なんだかこじんまりまとまってしまったというか、下手なバッターがバットをボールに当てにいくように、小説を書きにいっているような印象を受けていた。
私が窪美澄に求めていたのはそんな無難にまとまった「再生の物語」や「感涙の物語」でなく、『ふがいな僕は空を見た』のような既成の小説をぶち壊すようなパワーを持った、パンクな小説だったのだ。
だからこの『アニバーサリー』の帯に「大切なものを教えてくれる最新長編」という文字を見つけたとき、なんだか嫌な予感を覚えた。もしこれでダメなら私はもう窪美澄を追いかけるのはやめようと考えながら読み始めたのである。
しかし、『アニバーサリー』は違った。
これはパンクというか、演歌というか、怨歌だ。窪美澄が父性や男社会や男に放った強烈なグーパンチだ。多くの男性が顔面にクリーンヒットされ、そのまま無様にアスファルトの上にダウンさせられるような、力のこもった小説だ。
物語はあの3月11日の震災の日から始まる。昭和10年生まれ75歳の晶子は、マタニティスイミングの指導員として妊婦を相手に昼食会をしていた。しかしあの揺れで食事は中断され、自宅に帰ろうとするがすべての交通手段は麻痺しており、晶子は帰宅できなくなってしまう。
そのとき晶子が思い出したのが、何度かマタニティスイミングに顔を出していた昭和55年生まれの真菜。真奈は、晶子の長年の勘によれば「危うい妊婦」であり、心配になる存在であった。その真菜の家は晶子が足止めさせられてしまったターミナル駅からほど近くにあり、避難ととともに真菜の顔を見ようと彼女の家へと向かうのだ。
物語の前半部分は晶子の人生が、中盤では真菜の人生が丹念に描かれ、窪美澄自身が新潮社のPR誌『波』で「いつか女の一代記を書き」たかったと語っているけれど、これはその晶子や真菜の一代記だけでなく、真菜の母親で料理研究家の真希の、晶子の親友・千代子(最優秀助演女優賞)の、そして戦前から現代にかけて生きてきた日本のすべての女性の一代記だ。
人は誰しもそんな女性から生まれ、そして生まれた世界(家庭)がどんな世界(家庭)であろうと生きていくしかない。『アニバーサリー』は、そこがどんな世界であろうと、生きていく力を与えてくれる小説だ。しかしそれは両腕でふくよかな胸に包み込んでくれるような、母性という甘ったれた幻想ではない。
まさにグーパンチだ。その痛みから始めるしかないのだ。