通勤読書は、柳田国男『狐猿随筆』(岩波文庫)。『野草雑記・野鳥雑記』 (岩波文庫) とともに、身近な動物や植物などの民俗学的エッセイ集。私はこういうものが大好きなのだが、よくよく考えてみると、それは「まんが日本昔ばなし」の影響なのかもしれない。
「本の雑誌」で予定されている前代未聞の特集(新潮社特集)の取材で、終日新潮社。社員食堂の鮭フライを囓りながら、自分の人生について深く見つめなおす。
先月訪問し、その素晴らしい棚づくりに驚いた青山一丁目の流水書房を訪問。
本日は担当のAさんがいらっしゃったのでゆっくり話を伺う。こちらのお店はビジネス街にある60坪ちょっとのお店なのだが、その文芸書の棚の一面が、ある種の人にはたまらない品揃えになっているのだ。
ある種というのは坪内祐三さんの本が好きな人、あるいは古きよき日本の作家が好きな人と言い換えられるかもしれないが、担当のAさんは「でもおそらく坪内さんはこういう本屋さんは嫌いですよね」と苦笑いするのであった。
近々フェアコーナーを大々的に入れ替えるようなのだが、そのフェアのリスト作りのために、国会図書館やら古本屋さんやら調べ歩いているそうだ。明らかに本に取り憑かれているような人なのであるが、当然ながらそういう書店員さんが作る棚は面白い。
原子力発電所の放水活動に参加していた消防隊員の記者会見が、あまりにかっこ良く、胸を揺さぶったので、9.11のときに現場に駆けつけ帰らぬ人となった消防隊員のルポルタージュ『ファイアハウス』デイヴィット・ハルバースタム(集英社)を読みなおす。
何度読んでも涙が溢れてしまう傑作。
助っ人アルバイトがお休みのため、あちこちへおつかい。
神田のK書店さんへ『何にもしないで生きていらんねぇ』ECD著を直納し、その足で和田誠事務所により、表紙を受け取る。空は晴れているのに、心はまったく晴れない。
計画停電の影響で休業している書店員さんが「早く本が売りたい」と話していたが、私も心置きなく本屋さんを廻りたい。営業し売上を上げたいというのではなく、そのなんでもない日常を自分がどれだけ愛していたか気づいたのである。
読める小説は小川洋子だけなのであるが、聴く音楽はブルース・スプリングスティーンの「BORN TO RUN」とU2の「JOSHUA TREE」ばかり。ブルース・スプリングスティーンの声は、まるでお父さんのような声で、ボノの声は神父さんの祈りのようだ。
いくつかの書店さんを回ってみたが、東京でも、棚の本がすべて崩れ落ち、いまだ片付けの終わっていないお店や、棚自体が折れてしまったお店などあり、また節電の影響で営業時間を短縮しているお店も多い。
お店のリニューアルと震災が重なったとある書店員さんは「もう14日間連続で働いているよ。家にもずっと帰っていない」と青白い顔で話していた。
それなのに私がお店を後にしようとすると「こんなときに来てくれてありがとう。お疲れさま」と私の肩を叩くのであった。
そして、こういう中でも本を買っていくお客さんがいる。ありがとうございます。
震災後、初めて読みだした小説は、『人質の朗読会』小川洋子(中央公論新社)。
他の小説は全然頭に入って来ず、数ページめくっただけで棚に戻してしまったが、小川さんの描く世界だけは、私の頭のなかで、しっかりと動き出した。
いつまでもこの本の世界に浸っていたい。
とても日記を更新するような気分でないのですが、本の雑誌社のスタッフ等の安否を心配されるメールが各所から届いているので、こちらで報告させていただきます。
まず私たち、本の雑誌スタッフ一同は、それぞれ会社、打ち合わせ先などで、地震にみまわれましたが、運良く、本当に運良く、全員会社に戻ってくることができました。そしてそれぞれが、徒歩や自転車、あるいは近所に住んでいる元社員の好意によって宿泊させていただき、当日の夜も無事に過ごしました。
私は、会社の倉庫に転がっていたママチャリに乗って浦和まで帰りました。
おそらく25キロくらいだと思いますが、日頃の走っていることが幸いし、自宅まで約2時半で着きました。玄関を開け、驚いた顔して降りてきた娘と息子の顔をみた瞬間緊張が途切れ、子どもたちの前で初めて号泣してしまいました。
それからはテレビで映される被災地の状況に胸が押しつぶされそうになり、また定期購読者の方々の名前が頭のなかを駆けめぐっております。
皆様のご無事をスタッフ一同、祈っております。
そして本日、それぞれが自転車で通勤したり、自宅で仕事をしたりしながら、「本の雑誌」および単行本を滞りなく出版できるようスタッフ一同、精一杯頑張っております。それは私たちだけでなく、倉庫の方々、流通業者のみなさん、また取次店さん、書店さんと出版業界の各所でみなさんが踏ん張り、本を届けようとしています。
こんな時こそ、目を覆いたくなる現実を、ほんの一瞬でも忘れられるような本を作っていきたいと、発行人兼編集長の浜本ともども話しております。私たちにはそれしかできません。頑張って参ります。ご心配ありがとうございました。
なによりも、ひとりでも多くの方の命が救われるよう祈ってます。
宮田珠己さんの『だいたい四国八十八ヶ所』に続き、高野秀行『世にも奇妙なマラソン大会』の重版が決定。
自分で作り、営業した本が2冊続けて重版がかかるとは! これはもう発行人の浜本やら事務の浜田やらを床に膝まづかせ、おらおらおらと足蹴にしてやろうかと思ったが、なんだかあまりにいいことばかりが続いていることの不安の方が大きくなり、思わず頭を丸めてしまった。天罰がくだる前に、自ら追い込む作戦だ。
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営業を終えた夜、池袋のとあるビルの屋上へ向かう。
そこで出版業界のサッカーバカが集まり、いつも偉そうにサッカーを語っているなら自分でやってみろと「イウナラヤッテミロFC」というサッカーチームが結成されたのであった。
今回の対戦相手は秋田書店サッカー部で、月1程度でフットサルの活動をしているそうだ。もっとボコボコにやられるかと思ったが、意外や意外、おっさんたちは頑張り、試合終了時にはチーム名が「イウナラヤッテヤルFC」に改名されていた。
朝、私の定位置はストーブの前だ。
できることなら暖炉や囲炉裏のある家に住みたかったが、現実はそういう訳にはいかず、モチの焼き跡が黒ぐろと残る石油ストーブの前で、私は新聞を広げ、バナナを食べている。
この冬、6歳になった息子が起きだしてくると、「合体!」と叫んで、私の膝の上に飛び乗ってくる。もうすでに十分大きくなっている息子の全体重を預けられ、あやうくストーブにひっくり返りそうになるが、私はそれを抱きとめ、そっと匂いをかぐ。
息子の坊主頭はいつも日なたの匂いがする。
「今日、何時に帰ってくる?」
時間というものをよく分かっていないくせにそう聞いてくる。
「早く帰ってきてよ」
妻ですらここ何年も言っていない言葉を口にする。
「なんでだよ?」
「タタカイするんだよ、タタカイ。ぼく、もうパパより強いんだから」
つい最近まで、電車や車といった乗り物が好きだったのに、ここ最近は仮面ライダーやゴーカイジャーのようなヒーロー物に夢中なのだった。ひとりでいるときも、どこかに敵が見えるらしく、「うりゃ」「いくぞ!」と手足を振り回しているらしい。一週間ほど前の夜、妻は「男の子ってああいうものなの?」と心配していたのだった。
私は今、いろんなことが一斉に動き出し、疲労やらストレスやらプレッシャーやらで、サッカーでいうところの、2対2の同点の末、延長線に突入したかのような生活が続いている。
息子と戦うために早く帰りたいのは山々だが、それも許されず、そしてゴールを決め、勝利することすら諦めてしまいそうなほど、疲れ果てている。そんなときサッカー選手が、サポーターの歌声によって気持ちを奮い立たせるように、私は朝の、このほんのひとときに息子や娘と触れ合うことで、新聞を睨みながらも前日やその日のことを考え、がんじがらめになっていた緊張を解いているのであった。
「昨日も遅かったじゃん」
遅れて起きてきた娘が私の新聞を奪いとり、ドラえもんのコーナーを読み出す。その背中は、私にビッタリ張り付いている。ストーブよりもずっと暖かい背中だ。
私の父親や母親も、私や兄貴がいることによって救われた時期があるだろうか。
娘の頭を眺めながら、そんなことを考えていた。
何気なく読みだした千早茜の『からまる』(角川書店)が、あまりに面白く、すっかり寝ることを忘れ、読み終えた後も頭がしびれたようになり、眠ることができなかった。
これは年間ベスト級の面白さだ。この筆致、この表現力、そして人が生きていくということをきちんと捉える目線。恐ろしい作家がいたものだ。
千早茜といえば、2008年に小説すばる新人賞を受賞した『魚神』でデビューし、同作品で泉鏡花文学賞も受賞していたのであるが、その装丁は気になったものの、読んでいなかった私はなんて馬鹿者なんだろうか。
早速、本日営業中に購入したのであるが、こちらはこちらで幻想的な作品なようで、『からまる』の自分を守るために、薄い膜のなかに閉じこもった人々を描いた現代連作短編小説とは違うようだが、それにしたってこの作家はどうみても、角田光代や山本文緒、そして私の大好きな絲山秋子や昨年の本の雑誌のベスト1『ふがいない僕は空を見た』窪美澄(新潮社)のような、小説シーンを切り開いていく女性作家になること間違いなしだ。
各章に出て来る生物や、それぞれがぶち当たる性の話などは、よほどの作家ではないと書けないだろうし、言葉の巧みさも素晴らしく、まさに小説家として生まれたような人だと思う。興奮で眠れないのも仕方ない。
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眠い目をこすって出社すると、前日締めきった本屋大賞2次投票がどどどと届いていて、朝からFAX投票分を機械のようになって打ち込みまくる。
営業確変モード中なので、早く書店さんを廻りたいのだが、私が打ち込み終わらないと集計もできないので仕方ない。
午後になって終了し、神保町などを営業。
東京堂書店は、ふくろう店も含め、3月14日にリニューアルするそうで、果たしてどんなお店になるのか楽しみだ。チラシには「本店2階 日本文学著者別棚新設」や「本店3階 地方小「リトルプレス」コーナー拡充」などとうたわれており、期待が高まる。
営業は確変中なのだが、担当者さんがお休みでお会いできなかったお店も多く、まあ、そんなに良いことばかりが続くわけない。
しかも雨が降り出し、楽しみにしていたランニングもできないのであった。
とある出来事により、ただいま営業確変モードに突入。
どの書店さんを訪問しても注文をいただけるという、とんでもない緊急事態だ。
できることなら分身ライトを浴びて、ひとり営業を50人体勢ぐらいにしたいのだが、私が50人いたら妻も子も困るだろう。仕方なくかけずり回りつつ、FAXや電話、あるいは書店さんの本部と連絡を取り、注文をいただいている。
ふと思い出したのは半年ほど前の飲み会だ。
そこでは元大型書店の店長にして、現在出版営業マンになられた大先輩がいたのだが、その人は私に向かって「どうせ本の雑誌なんて外回りしても注文も取れないだろう」と言い放ったのであった。
たしかに既刊書の注文を取るのは大変だけれど、それにしたってそんな言い草もないだろう。世の中にはかつての立場を忘れられない人というのがいるものだが、私は反論せず、ただただ「いつか見ていろ」と酒を煽っていたのであった。
その「いつか」が、やって来たようだ。
諦めずに続けていればいつかチャンスがやってくる。
そしてこの夜は、丸善ラゾーナ川崎店さんを訪問し、「面白くなかったら返品受けます」の期限最終日を見守った。その後、担当の沢田さんと祝杯を上げる。あの夜と違って、死ぬほど美味い酒だった。
「週刊文春」にて、『だいたい四国八十八ヶ所』と『世にも奇妙なマラソン大会』が同時に紹介され、両方の本の営業&編集をした私としては、気の触れるような興奮状態なのであった。
しかもこれで『だいたい四国八十八ヶ所』は、ほぼ品切れ状態となり、重版も決定。直接報告すべく宮田さんの住むスットコランドへ。
「おめでとうございます」と祝福の言葉をかけると、宮田さんはちょうど前日重版(13刷!)がかかった『ときどき意味もなくずんずん歩く』(幻冬舎文庫)のことだと思ったらしく、「ああ、ありがとうございます。でもあの本しか売れないんですよ...」といつもの哀しみを帯びたロバのような表情をするので、「違いますよ! 『だいたい四国八十八ヶ所』の重版です!」と訂正したのであった。
その瞬間の表情を見たくて、私はこの3年間頑張っていたのである。
走馬灯のように、様々な記憶が蘇る。
初めてスットコランドに訪れた日のこと、宮田さんの執筆部屋に並ぶたくさんの本を飽きずに見ていたこと、素敵なカフェでカフェめしを食ったこと、『スットコランド日記』を売りたくて丸坊主になったこと、帯のコピーを決めるために何度も携帯でメールし合ったこと、温泉に一緒につかったこと、なぜか引っ越しの手伝いをしていたこと、などなど。
大好きな著者の本を、一生懸命作り、売るということは、なんて幸せなことなんだろうか。
しかも、今回は、友であり、もっとも尊敬する書店員である丸善ラゾーナ川崎店の沢田さんと良文堂書店松戸店の高坂さん、三省堂書店の内田の強烈な後押しがあったからこその結果であり、それがまたうれしいのであった。
やっぱりひとりでは、本を作り、売るなんてことはできない。
そのことを教えてくれたのが『だいたい四国八十八ヶ所』だった。
とある書店さんを訪問すると、「見て見て」と注文短冊を渡される。それは20数枚の文庫の注文短冊で、何かと思ったらすべて品切れで戻って来た短冊だった。
「こんなに品切れなんですか?」と驚いて訊ねると、「そうじゃないんだよ、これ、うちのお店が注文した本じゃないの」と不思議なことを言う。
注文短冊とは、書店さんが出版社に注文する際の、いわば注文書だ。
書店さん以外に誰が注文をするのだろう。
「取次店がさ、うちの名前を使って勝手に注文しているんだよ。これは品切れだったから注文短冊が戻って来ているけど、この何倍も勝手に本が送られて来ているんだ。まったく必要がない本ばかりだから、みんな返品しているけど......」
意味がわからないのであった。
書店さんが欲しいと思わない本を、取次店が勝手に出版社へ注文する。その注文は書店さんの名前で出ているのだから出版社は売れているのかと思って当然出荷する。ところが書店さんは不要だから返品をする。ちなみに返品には手数料がかかる。
「ほら、3月が取次店の決算だから......」
もっと意味がわからないのであった。決算だからって勝手に注文をしていいのか?
そういえば私の親友シモザワは、建築商社に勤めているのであった。取次店と似たような職種であるので、お店を後にし、早速電話で尋ねてみる。
「工務店や業者が必要としない商品を決算だからといって勝手に納品することがあるか?」
「あるわけないだろうが。そんなことが許されるなら、俺は仕事しないよ」
そりゃあ、そうだ。私だって勝手に書店さんに納品できるなら何もわざわざ毎日歩きまわる必要はないのだ。
どの業界も魑魅魍魎としているのは当然なのだが、それにしてもこのような異様な商習慣が、おそらく毎年決算時に繰り返されているのは、その根底に本は返品できるからという甘えがあるからだと思う。
しかしそれにしたって、片方では返品率の改善を叫びながら、自社の決算のためなら返品率が上がろうが、架空の注文短冊を作っているのである。不思議で、不毛だ。
別の書店さんでその話をしたら「うちはそういう商品を引き取らずに戻しているよ。だってさ、それって書店で考えたらお客さんのカバンに無理矢理本を突っ込んで、代金を払えっていっているようなもんでしょう」と本気で怒っていた。
何よりも、本が本として扱われていない、あまりに悲しい現実が、この架空注文にある。
インドネシア、レンバタ島ラマレラ村。人口2000人のその村では、銛一本でクジラを仕留める漁があるらしい──その伝説を耳にし、もしやと現地に確かめに行ったのが写真家・石川梵であり、それから想像を絶する時間を費やし、実際にクジラを仕留めるシーンを撮影するまでの物語を描いたのが『鯨人』(集英社新書)である。
新書だからといって侮ってはいけない。これは骨太の素晴らしいノンフィクションだ。鯨と人間が生命をわけあって生きるその姿に、何度も涙を流しそうになった。そして何よりもその瞬間を待ち続けた著者の魂に感動を覚える。出来ることなら写真集『海人』(新潮社)が見たい......。
訪問したことのなかった横浜市営地下鉄ブルーラインを初営業。
ここのところ、営業魂が爆発しており、どかどかと書店さんを訪問しているのであった。
通勤読書は、『フットボールサミット 第2回 検証・中田英寿という生き方』(カンゼン)。サッカーファンにとって、アンタッチャブルな存在になりつつある中田英寿の、その生き方について多角的に捉えた本書は、素晴らしいサッカー本だ。
特に巻頭と巻末を飾る大泉実成のルポは、ここ数年読んできた雑誌の記事のなかでも、特出した出来だ。「Number」誌上で、『28年目のハーフタイム』金子達仁(文春文庫)の元となる「叫び」や「断層」を読んだときのようなゾクゾクしたものを感じた。
私はワールドカップを私物化したあの瞬間から中田英寿が大嫌いになったが、なんだかこの本を読むと考え直さなければならないような気がしてきた。中田のまなざしのその先にはいったい何が映っているのだろうか。
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出版営業をやっていて何よりも嬉しいのは本が売れることではあるのだが、それと同じくらい嬉しいのは素敵な書店さんに出会えることだ。お店に一歩入った瞬間に、「うわっ! ここで本を買いたい」と思わされる棚作りがされていたりすると、ついつい営業するのを忘れてお店を徘徊してしまう。
本日訪問した有隣堂藤沢店はまさにそんな気持ちにさせられるお店だった。リニューアル前からしっかり本を揃えている印象があったが、入り口階に降りて、3フロアの営業になった今、あるべき本がきちんと並べられた背筋の通った書店さんになっていた。
こういうお店を見つけるとつい引っ越したくなってしまうのだが、残念ながら藤沢には浦和レッズがない。湘南ベルマーレを応援するわけにもいかないので、再訪するのを楽しみにすることにした。