2010年も大変お世話になりました。
「本の雑誌」を発行し続けられたのも、いろんな単行本を出版できたのも、みなさまのおかげです。来年もより面白い雑誌、単行本を作って参りますので、引き続きご愛読よろしくお願いします。
この「炎の営業日誌」も10周年を迎え、いい加減もう少し面白いものを書いていきたいと初詣の際は、浅草寺はじめ浦和の調神社、春日部の燃えちまった備後須賀稲荷神社に、浦和レッズの復活とともに祈って来ます。
ではでは、皆様、ありがとうございました。
良いお年を!
8時過ぎに家に帰ると食卓の上に晩ご飯の用意がしたあるだけで誰もいなかった。その晩飯も肉じゃがでクリスマスらしさは皆無であった。
そういえば今夜は近所の家に集まってクリスマス・パーティをするとか言っていたのだ。そのために昨日はプレゼント交換用の文房具を買いに行かされたのだった。
もちろん私はパーティに出る気はなく、風呂を沸かしてゆっくりと浸かり、ご飯を温めて食事をした。その後は、コタツに入ってみかんを食べながら、撮り貯めていたプレミアリーグの試合を見る。
なんて素敵なクリスマス・イブなんだろうか。
しばらくすると玄関が開く音がしたが、それに続いてゾウアザラシの雄叫びような音が聞こえてくる。
「オエーーーーー」
バタンとトイレの扉が乱暴に開かれると立て続けにまた雄叫びだ。
「オエ、オエ、オエーーー」
そして娘の「ママー」とすすり泣く声がし、息子はそんなお姉ちゃんに対して「ねーねー泣かないで」と必死に慰めている。
これは面白い展開になったではないか。
いつもは鉄壁の女で、私のやることなすこと厳しく問いただす妻が、今、階下で、酔いつぶれゲロを吐いている。一年間のマイナスポイントを取り返すチャンスが、今、まさにクリスマス・イブの夜にやってきたのだ。
笑いを堪えながら下に降りていくと、そこは阿鼻叫喚の修羅場で、娘はトイレの前で泣き崩れ、息子はお姉ちゃんの頭を撫で撫でしている。そしてトイレの向こうでは、いまだに続くゾウアザラシの叫び声。
酒、コワイネー。
このゾウアザラシの叫び声が子どもたちのトラウマになって、将来、娘と息子がゾウアザラシやオットセイやセイウチを虐待するようになっては大変なので妻を見捨てて、まずは風呂に入れることにした。私はすでに一度入っているのでまったく意味がないのであるが、これも後に妻を攻める大事なポイントになるであろう。
風呂から出てもまだゾウアザラシはトイレにおり、娘と息子を2階に連れて行き、寝間着を着させる。娘と息子は私に「ママ、死なない?」と聞いてきたが、「あんなのは今頃、新宿の路上にいっぱいいるから大丈夫だ」と落ち着かせる。
布団を敷いて、頭を乾かしているところへ、やっとトイレから出てきたゾウアザラシこと妻が、四つん這いになって這い上がってきた。
「ひやー、しいません」
そう言いながらもズボンが腰まで脱げているではないか。あの鉄壁の妻がこんな醜態を晒すとは......。
ヤッパリ、酒、コワイネー。
私はあわててコタツの上にあった娘のニンテンドーDSを手にすると、カメラモードを起動し、その妻の姿を撮影する。これで証拠も揃ったわけだが、そんな私を娘と息子が不思議そうに見ている。
「パパ、どうしてこんな大変なのに、笑っているの?」
「大変なときこそ笑うんだよ」
なんだか人生に大切な25の言葉のうちの一つを言っているような気がするが、本心は腹の底から楽しいので笑っているだけだった。
腰パンの妻を布団まで引きずり、枕元にサンタクロースの靴下の代わりにエチケット袋を用意した。
明日、来年の浦和レッズの年間チケットの申請の話を妻にしよう。
なんて素敵なクリスマス・イブだ。サンタさん、ありがとう。
誰も読んでいないのかと思っていたが、そこかしこからきちんと更新するようと叱られてしまう。ありがたいような、そうでないような年末だ。
「『1Q84 BOOK3』 村上春樹(新潮社)以外何もヒットのなかった年ですね」なんて文芸書の担当者さんとしていたのは、12月14日までのことであった。
『KAGEROU』齋藤智裕(ポプラ社) のあの狂気としかいいようのない売れ方には度肝を抜かれてしまった。部数もさることながら、並べられている新刊台の人だかり、中も確かめずに手に取りレジに直交する姿、まるで昔のゲームソフト「ドラクエ」の発売か、OSソフト「Windows」の発売日のようであった。こんな風に売れる本があるのか、いや以前はこうやって本が売れていたのだと、お客さんの密度の濃い店内で呆然と立ち尽くしてしまった。
そうしてあることに気づく。
つい営業で私は「この本、面白いんですよ」と自社本を売り込んでしまったり、あるいは本を作るときに面白い本を作ろうと考えてしまうのだが、実は商品として大切なのは、面白いかどうかではなく、「面白<そう>」に見えるかなのだった。
それは当然といえばあまりに当然で、お客さんは、すべての本を読んだ上で面白かったから購入するのではなく、面白<そう>に感じたから買うのであった。
出版社の仕事とはまさにその<そう>の部分であり、電子書籍にできないのも、その<そう>の部分なのかもしれず、それこそがパッケージ文化というものなんだと思う。
それにしてもこんなに簡単に人は本を買うのか......とあの白に青の十字の表紙をみて思うのであった。
夜、闘病記というよりは、迫力満点の自叙伝『身体のいいなり』(朝日新聞出版)を出版した内澤旬子さんを中心に、高野秀行さん、宮田珠己さんとエンタメノンフ文芸部の忘年会。新宿・陶玄房。
小説を書くために発足された文芸部なのだが、今年はほとんど活動はなく、まあそれでも宮田さんはWebマガジン幻冬舎で「カミシンデン奇譚」が始まったり、高野さんは来年には長編を発表するようで、じわじわと厚き小説の壁を突き崩しているのだろう。私には書くべき小説がないのだが......。
これにて、2010年の忘年会はすべて終了。
昼、横浜にてデザイナーさんと装丁の打ち合わせ。
その後、営業にうつるわけだが、この頭の切り替えが大変なのだった。
人とコミュニケーションを取るということには編集も営業も変わりはないわけだが、ものを作り出す発想と売るということは意外と遠くにあって、しかも販売の現場は容赦ない言葉が飛び交うので、作る意欲が半減されてしまうこともしばしば起こる。だからこそ出版社は営業部と編集部が別れていて、しかも仲が良くないことが多いのだが、私の場合、そのふたつがひとりのなかに同居しているので、しんどいことも多い。
横浜ポルタの丸善さんがなんと移転の上、約3分の1に売り場が縮小されるというので、思わずあごが抜けそうなほど驚く。テナントの意向らしい。ジョイナスの栄松堂さんもそうだったが(後にリブロさんが縮小の上オープン)、最近はそんなのばかり。商業施設が書店を必要としていないのだろう。
それにしても書店さんがどんどん減っており、人と本との距離が、物理的にどんどん開いていくことが一番心配だ。
そんななかとある書店さんを訪問し、ひとり気を吐く書店員さんと対面。
「売らねーことと売れねーことは違うから」
そういって異動されてきたお店の棚をばんばん変えているところだった。
やっぱりTさんはカッコいいのであった。
『本の雑誌』2011年1月特大号搬入。ベストテンや新連載がどーんとスタート。
埼玉を廻る。
大宮の三省堂さんを訪問すると文芸書の棚に文庫などが並んでおり、非常に魅力的な棚になっていた。
新しく担当になられたSさんに話を伺うと、文芸だけでなく、文庫や新書も担当されているとのことで、ジャンル(判型)にこだわらず、お客さんの目線で本を並べていくようにしているとのことだった。女性文芸の棚に並ぶ幸田文や白洲正子などの講談社文芸文庫はとても納まりがよく、素敵な棚づくりだった。お客さんからしたら読みたいテーマの本は、文庫も新書の単行本も、あるいは雑誌だろうと関係ないはずだから。
総武線を営業。
書店さんの話を聞いていて思ったのは、年配向けの本と若年層向けの本は売れているということ。
例えば、渡辺淳一『孤舟』(集英社)、例えば金沢信明『王様ゲーム』(双葉社)など。(というかこの『王様ゲーム』のamazonのレビューはすごいことになっている)本を読む層が限られているというよりは、これらの年代だけが、まだお財布のなかに自由に使えるお金があるということのようだ。
夜、出版社が30社ほど集まる忘年会に参加。
誰と話しても「電子書籍」の話になり、まさに2010年出版業界流行語大賞だ。
しかしそういう話題はいつも「本はなくならない」という感じで締めくるられるのだが、そりゃあ当然というか、本はいつまでも残るだろう。今ある問題はそういうことではなくて、「本を作り売ることによる」産業が成り立つのか、どうかなのではないか。
そもそも電子書籍が出てこなくてもほとんど成り立たなくなっていたんだけれど、電子書籍が登場し(ずっと前からあったけど)加速度的にそれが進む可能性が出てきたわけだ。
私たちが、いや私が考えるべきことは、本をつくる最後のひとりになる覚悟を持つのか、あるいは出版業界をやめるのか、あるいはなんとなく似たような素材で商売ができそうな(たぶん全然別もの)電子書籍に向かうのかだと思う。
「本はなくならない」とかそういうところで考えることをやめ、安心したりするのが、一番危険なのではないか。
『おすすめ文庫王国2010-2011』が搬入となる。
企画会議の後、営業に出、そのまま本屋大賞の会議。
終電1本前の電車に乗って帰宅する。
私はかなり疲れていると思う。
西日暮里駅の改札で、私は父親を待っていた。
昼間は何か季節を間違っているのではないかと思わされる陽気だったが、さすがに日が暮れると風は冷たくなっていた。コートを着た多くのサラリーマンが一足早い忘年会のためか、その改札で待ち合わせをしているようだった。私はすこし離れたところに立って、父親が来るまで本を読んでいた。
私は待ち合わせに遅れたことがほとんどない。6時30分の待ち合わせなら、6時20分には待ち合わせ場所にいる。あるいはもっと早く着いてしまうことも多い。人を待たせたくない。いや私は人を待つのが好きなのかもしれない。
しかし私の父親は、旅行に行くにも1週間前にはカバンに荷物を詰め終えてしまうような男だ。そしてその旅行カバンを三日前から玄関に置いていたりする。こういう人と待ち合わせしたとき、どれくらい早くいけばいいのかまったく見当がつかない。とりあえず30分前に改札を覗いたがまだいなかった。
39歳の息子である私と67歳の父親が、一軒の居酒屋で酒を飲む。といっても込み入った話があるわけでなかった。またいつもそうしているわけでもなかった。ただ私が幼なじみと酒を飲もうとしたとき、その目当ての居酒屋が父親の行きつけの店だった。それで声をかけてみたところ、一緒に行くことになった。声をかけた時点で、私と幼なじみの頭には、ただ酒という想いが浮かんだ。小学生が近所のおじさんにアイスを奢ってもらうような気分と言ってもいい。
駅の改札に立って、私は幼き頃のことを思い出していた。
私の家は、私が小学校5年生のときに父親が会社を起こし、しばらく貧乏生活に陥るのだが、それ以前の父親がサラリーマンだったときは、毎月給料日になると地元の駅で父親を迎え、焼き肉やうなぎを食べに行っていた。それが唯一の贅沢であり、当時の娯楽といえばそんなことしかなかったのかもしれない。
私はその給料日が近づくとそわそわし、5歳離れた兄貴と今月は何を食べるかと熱心に話し合っていた。そうして給料日当日を迎えると、私は電話の前に座って、父親から電話がかかってくるのを待った。
「お父さんだけど、今、北千住の駅。17時48分の電車に乗るから、武里駅に着くのは18時25分だな」
私は電話を切ると、そのまま母親に伝えた。今にも玄関を飛び出しそうな私を、母親は「まだ時間があるでしょう」と抱きしめるようにして止めるのであった。そして時間が近づくと母親は私と兄貴に上着を着せ、駅へ向かって歩き出した。遠くに見える駅の灯りは、とてもまぶしかった。
あれから30年以上の月日が流れ、私はまた父親を駅で待っていた。
果たして今晩、酒を飲みながら父親と話すことがあるだろうか。日頃疎遠というわけでもないし、もう私も家計を独立して十年以上が経っている。父親から教わるべきことはすべて教わったような気もする。だから話すことなんて何もないかもしれない。いったい子どもの頃の私は、父親と何を話していたのだろうか。
★ ★ ★
2週間ほど前の週末、私は朝6時に起きて、娘のサッカーの大会に行っていた。
そこで春からコーチをしているので、娘だけでなく、子どもたち十数人の世話をしているのだ。その日は地域の大会で、子どもたちはずっと前から優勝したいと騒いでいたのである。
残念ながら1試合目に当たった相手が強敵で、あっけなく敗戦してしまい、下位のブロックに入ってしまった。何人かの子はその試合の後泣いていたが、私は「サッカーは楽しむもんだから泣いたらダメだ。泣くくらいなら練習頑張ろう」と声をかけていた。
夕方まで5試合をこなすと身体を動かしていない私もヘトヘトになってしまう。荷物の整理をし、娘とともに車に乗り込んだとき、大きなため息が口から出た。
家に帰ると娘とともにシャワーを浴びたが、私は休む間もなく、娘と外に出た。
その日は近所で同年代の子どもがいる家族が集まって、バーベキューパーティをする予定だった。妻と息子はすでに会場である大きな庭のある家に行っており、私はビールケースを抱え、いい匂いをさせ、もくもくと煙をたてているほうへ歩いて行った。
ビールを2杯飲んだところで、どうも私は椅子に座って寝ていたようだ。妻から「帰って寝れば」と肩をゆすられ、そのことに気付いた。子どもたちは肉を焼いているバーベキューコンロに群がり、大騒ぎしている。面倒をみなければいけないのだが、私の身体は疲れきっており、それどころではないようだった。
「すいません、朝、早かったもんで」
と近所の人たちに謝り、私は、ふらふらとひとり自宅に戻った。
コタツの電源を入れると、そのまま寝入ってしまった。
どれくらい時間が過ぎたのだろうか。
玄関が開く音がし、5歳の息子の声が聞こえてきた。
「パパ、大丈夫かな? ぼく、見てくるよ」
「大丈夫よ、寝てるでしょう」妻が諭すように言うが、息子は居間のある2階に駆け上がってきた。
「ダメだよ、こんなところで寝ちゃ」
私はコタツの熱さから抜け出し、フローリングの床に横になっていた。
「まったくもう」
息子は、そういって寝室に入って行くと押し入れを開け、布団を出しているようだった。何枚かの布団がずり落ちる音がし、これはお姉ちゃんの布団で、これはママのかなんて言いながら、私の掛け布団を引きずってきた。
「ほら」
私の身体に布団をかけると息子は抱きつくようにして、私の頰に頰を寄せてきた。
「パパ、風邪引いちゃダメだよ。だってぼくパパのこと大好きなんだから」
そして息子が私の手を握ってきた。
それは生まれた頃よりずっと大きくなっているけれど、まだ私の手にすっぽり埋ってしまうような手だ。でもその手は、とても暖かかった。
★ ★ ★
父親を待ちながら、私はまた考えていた。
私にいつか息子とこうやって酒を飲む時が来るだろうか。
そのとき私には息子と話すことがあるだろうか。
照れでもなんでもなく、私にはあまり話すことがないような気がした。
「おやじ、まだサッカー行ってるの?」
「もちろんだよ。相変わらず弱いけどな」
そんな会話しか私には思い浮かばない。
しかしそこで、どうしてもひとつだけ息子に話したいことがあることに気付いた。
それは、この前、私の手を握ってくれたように、私が死ぬときには私の手を握って欲しいということだ。娘とふたりで私の手を握って欲しい。ただ、それだけどうしても伝えたい。
そうしてそれは、その夜、私が父親と話すべきことでもあった。
中央線を営業。
立川のオリオン書房ノルテ店では、人文書業界を越え、多くの読者を獲得しだした『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)の著者、佐々木中氏がセレクトした本のフェアが行なわれていた。まるで浅田彰氏が世に出てきた時のようなインパクトなのだが、果たして当時のリブロ今泉さんのように売っているのはどこの書店さんなのだろうか。
大好きな国立の増田書店さんを訪問す。
今回は営業だけでなく、実はどうしてもここで買いたい本があったのだ。
『追悼(上)』山口瞳(論創社)。
私の30代を作った作家・山口瞳の追悼文だけを集めた著作で、上巻では山本周五郎、吉野秀雄、三島由紀夫、向田邦子などが収録されている。ほとんど「男性自身」で読んでいるものだと思うのだが、以前から「そういえば山口さんが◯◯さんの追悼原稿を書いていたな」と「男性自身」各巻を探すことがあったので、これはものすごく便利な著作集だ。
いやそんな便利なんて言葉はたいそう失礼で、解説で元講談社の担当編集者・宮田昭宏氏が書かれているように「いまの日本の閉塞感に息も絶え絶えに生きているすべての日本人に読んでほしいと思う。ここに書かれている数々の死の姿と、それを悼む山口さんの血を吐くような覚悟を読み取ってほしいと思う」とあるとおり、ものすごく真剣に書かれた文章の数々だ。しかしこの本を29歳の編集者が作ったとは......。脱帽だ。
Y店長さんと話す。
「いろいろ安易な方向に進んできちゃったけど、やっぱりきちんとしたものを作っていかないとね。喫茶店がお客さんひとりひとりの注文に豆を挽き、コーヒーを入れるように。そういう本作っていきなよ」
★ ★ ★
夜は、杉作J太郎さんと編集・宮里の飲み会に乱入。AKB48の話で盛り上がる。
給料が出、小遣いをもらったので、帰りにブックファースト新宿店へ。
『釣り愉し、弁当旨し』つげ忠男(ワイズ出版)
『贋食物誌』吉行淳之介(中公文庫)
『銀河ヒッチハイク・ガイド』ダグラス・アダムス(河出文庫)
カバーはかけず、袋に詰めていただいたのだが、スリップはついたままだった。
今はもうPOSが普及し、そういうお店が増えているのはわかっているのだが、なんだか落ち着かない。私が書店でアルバイトしていた頃、スリップは宝物だった。半面が報奨金だったせいもあるけれど、これが在庫管理、売上管理にものすごく役立っていたのだ。いやスリップがなければ何もわからなかったのだ。
だから本が売れたら絶対抜く。抜き忘れたらレジで隣に立っていたベテランの社員がササッと手を出し抜いたりしていた。そしてそれをジャンルごとにわけ、毎日3時になるとバイトが二人、出版社アイウエオ順に並べ、ベストを割り出し、それを担当社員に渡しす。担当社員はベストだけでなく、すべて見、必要なものは注文数を書き込み、また私たちアルバイトに電話注文や短冊注文をさせていたのだ。
アルバイトを始めてしばらくすると、スリップを見ると本の姿形、そしてあるべき場所が想像できるようになった。検索機なんてなくてもわかったし、在庫数だってすべて頭に入っていた。もちろん今と出版点数も人員の数も違うのだが......。
先日、町の書店の集合体・ネット21の会合に参加し、栃木県小山市の進駸堂の店長Sさんにお会いしたら、しばらく捨てていたスリップを、また見るように指導しだしたと話していた。そうすると店員さんの商品知識や管理能力がみるみるアップしていったそうだ。理由はうまく説明できないけれど、やはり身体をつかう(手で触り、目で見)という作業は大切なのではないかと話していた。
まあ、そうはいっても「これは宝物ですから」とレジで抜き渡すわけにもいかず、スリップは私の家の本棚に置かれ、どうしても捨てられずにいる。
早起きし、街灯をたよりにランニングしていると、しばらくして東の空が白くなってくる。着込んでいたウィンドブレーカーを脱いで腰に巻く頃には、世界が色を取り戻している。
6キロほど走ってシャワーを浴び、コタツに入って北方謙三の『傷痕』(集英社文庫)を読む。布団から抜けだしてきた5歳の息子が私の膝に座ってくる。そうして首をくるりと回し、「バレちゃったんだよ」と言うのであった。
「何がバレたんだよ? またおもちゃ壊したんだろう?」
「違うよ。あのね、ゆーちゃんに『私のこと好きなんでしょう?』って言われちゃったんだよ」
ゆーちゃんとは息子が好意を寄せている幼稚園の女の子だ。
先日公園でたまたま会ったとき、息子はもじもじして近づけもせず、ジャングルジムの影から見つめていた。私と娘はそんな姿を見て「あれじゃストーカーだよ」と苦笑いしたのだった。
「それでどうしたんだよ。好きって言ったのかよ?」
「言うわけないじゃん。」
「じゃあ、ゆーちゃんに僕のこと好きって聞いたか?」
「聞いてないよ。たぶん僕のこと好きじゃないよ。パパ、どうしたら好きになってもらえるの?」
息子は真剣な様子で私の顔を覗き込んできた。
「それはお前、カッコ良くならないと」
「え? どうしたらカッコ良くなれるの?」
それを探すのが人生ではないか。たぶん北方謙三ならそう答えるだろう。
いや私のサッカーもランニングも読書も仕事も、みんなカッコ良くなりたくてやっているのだ。
「あのな、パパの背中を見なさい」
「えっ?」
そういうと息子は膝から降りて、私の背後にまわった。
「ああ、虎になればいいのね」
それは虎じゃなくて、ピューマだけどな。
でも、虎になればいいのかもな。
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通勤読書は、山の本特集。
『百年前の山を旅する』服部文祥(東京新聞出版局)。
食料や装備を極端に減らし、自らの力で山を登る「サバイバル登山」の実践している服部文祥は、この本では、装備などがまだ未整備だった時代の本や資料を頼りに、当時の格好で山を登っていく。まさに「コスプレ登山」であるが、山登り、あるいはその登るための道とは本来どういうものだったのか、教えてくれる好著。
そうして次に読んだのは、もしかしたら服部文祥の思想とはまったく逆の方向かもしれない、登山道(縦走路)を作る話、『栂海新道を拓く 夢の縦走路にかけた青春』小野健(山と渓谷社)だ。
北アルプスの朝日岳から海抜0メートルの日本海親不知海岸へ、仕事仲間結成した「さわがに山岳会」で、必死に整備していくのであった。もう少し道をつくる際の具体的な話を読みたかった気もするが、人間の器の違いのようなものを著者に感じた。でっかくて狂った人で、それはまるで『放っておいても明日は来る』のメンバーのようだ。
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『おすすめ文庫王国2010-2011』の見本を持って、直行で取次店を廻る。
増刊号の場合だけ、志村坂上のK社を訪問することになるのだが、いつの間にかユニクロや無印良品の入ったショッピングセンターが出来ていて驚く。前回訪問したときは『本屋大賞2010』のときだから、あれから8ヶ月も経っていたのか。
これが年内最後の書籍で、しばし川辺に立って感慨にふける。
来年はもっと頑張ろう。そう虎になって。