作家の読書道 第164回:東山彰良さん

この7月に1970年代の台湾を舞台にした『流』で直木賞を受賞した東山彰良さん。台北生まれ、日本育ちの東山さんはどんな幼少期を過ごし、いつ読書に目覚めたのか? さまざまな作風を持つ、その源泉となった小説とは? その読書歴や、作品に対する思いなどもおうかがいしています。

その1「台北に生まれ、福岡で育つ」 (1/5)

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  • 『こころ 坊っちゃん (文春文庫―現代日本文学館)』
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――東山さんは台北生まれですよね。実際に『流』に出てくる場所のような場所で育ったのですか。

東山:そうです。実際に小南門のあたり、広州街というところでした。昔は一軒家がいっぱいあった地域なんですけれども、今はマンションばかりが建っているような場所になりました。

――本を読むのが好きな子供でしたか?

東山:いや、全然そうではなかったですね。台湾にいた頃によく憶えているのは「水鴛鴦(スイイェンヤン)」という爆竹があって、それをお互いに投げつけあって遊んでいたことです。煙草みたいな形の爆竹で、マッチの箱でこすると簡単に火がついて、水の中に投げ込んでも消えないんですよ。火をつけてから途中で煙の色が変わると「もうすぐ爆発だよ」というサインになっていて、火をつけてすぐ投げると投げ返されるので色が変わるギリギリまで持っていて投げる前に自爆したり(笑)。あるいて敵が投げてきたものを投げ返そうとしても自爆していました。

――では、幼い頃本を読んだ思い出といいますと...。

東山:あまり絵本を読んだ記憶はなくて。うろ覚えなので間違っているかもしれませんが、『為什麼(ウェイシェンマ)』という子供向けの本がありまして。タイトルは「どうして?なぜ?」という意味です。「空はなぜ青いのか」といった、子供たちが抱きそうな些細な疑問に答えてくれる本を読んでいた記憶があります。それが小学校の2、3年生の頃だったと思います。

――あれ、日本にいらしたのは5歳の頃ですよね。

東山:父の仕事の関係で5歳で広島に行って、小学校2年生くらいの頃にまた台湾に戻ったので、その頃に読んだんだと思います。その後、9歳で福岡に行きました。今思い出したんですが、広島にいた幼稚園から小学校1年くらいまでは友達とよくハチを捕りに行っていました。アシナガバチだのクマンバチだの。それとゲンゴロウを捕ろうとして池に落ちたことがありましたね。なぜかハチとゲンゴロウに執着していました。

――あはは。ちなみに当時は頭の中の言語としては中国語と日本語と、どちらだったんでしょうか。

東山:最初に日本に来てすぐ日本語に染まって、中国語を忘れた時期があったようで、うちの祖母は母のことをすごく怒ったそうです。その後福岡で暮らすようになってからも結構厳しく母に中国語を勉強させられました。書き取りですね。僕らが子供の頃の向こうの国語の教育方針って、学校でもそうだったんですけれど、基本暗記なんですよ。教科書をすごく暗記させられる。日本語だと「あいうえお」を憶えるとひらがなは読めるようになりますが、中国語は漢字ばかりだから、ある程度漢字を憶えないと読めやしないんです。なので書き取りがほとんどだったような気がします。でも第一言語はすっかり日本語になりました。中国語のほうが読むにしろ書くにしろ、骨が折れます。

――では日本に来てから小学生時代の読書といいますと。

東山:漫画ばかり読んでいました。最初に買ったのは、野球が好きだったから『ドカベン』かな。『野球狂の詩』とか『男どアホウ甲子園』とか水島新司の漫画をいっぱい読んでいました。ちばあきおさんの『プレイボール』と『キャプテン』とか。実際にクラスのみんなでワイワイ野球をやっていました。間違いなく、家で本を読むよりも外で遊ぶほうが多かったです。

――その頃、福岡には球団は...。

東山:僕が福岡に来た小学校3年生の時って1977年なんですけれど、来てすぐクラウンライター・ライオンズのファンクラブに入りました。西武ライオンズの前身で、クラウンガスライターというライターのメーカーがスポンサーの球団が1977年から1978年の2年間だけ福岡にいたんです。すぐに埼玉のほうに行ってしまったけれど。

――映画や音楽など、小説以外でもカルチャーでハマったものはありましたか。

東山:小学校5年生の時から音楽をよく聴くようになって、はじめて台湾で買ったカセットテープがABBAとKISSと、なぜかポール・モーリアでした。毎年夏休みには台湾に帰っていたので、その時に買ったんです。

――台湾の帰省先は、親戚の家ですか。

東山:母方の祖父母の一軒家がまだあったんで。叔父も叔母も、その子供たちも一緒に住んでいるやかましい家でした。

――東山さんは国共内戦を潜り抜けてきたお祖父さんの話を書こうとして、その練習のためにまずはお父さんをモデルにした『流』をお書きになったわけですが、そのお祖父さんですか?

東山:それは父方の祖父で、生前はわりと疎遠で、亡くなってからいろんな話を聞いて「こんな人だったんだな」と知ったんです。母方の祖父母も中国で戦争に負けて台湾に来たんですが、こちらの祖父は軍人でした。陸軍の中将までいっているんです。台湾に来てからは警備総部の総司令もやっていて、軍からジープも支給されていました。でも戦争に負けて最初に香港に逃れて、それから台湾に来た時、祖母は靴も履いてなかったそうです。

――なるほど。さて、音楽を聴くようになり、その後はといいますと...。

東山:中1になるとませた友達がエレキギターを持つようになって、その影響でわりとうるさい音楽を聴くようになりました。ヘビメタとか、パンクですよね。中高は一貫してそういう音楽を聞いていました。音楽少年になりたくて、自分でも中2くらいからギターを始めてバンドを作ろうと思ったんですが、なかなか技術がついていかず、ほんのお遊びのようなものでした。あ、でもそうかと思いきや、その頃『窓際のトットちゃん』を読みましたね。しかも台湾で読んだ気がする。母親が帰省の時に持って帰ったものを、暇で暇でしょうがなくて読んだのかもしれません。

――学校の国語の授業で教科書や課題図書を読まされませんでしたか。それと、作文は好きでしたか。

東山:夏目漱石の『こころ』は割と面白いなあ、なんて思っていました。森鴎外の『舞姫』とかも教科書にありましたね。作文はまったく。好きでもなかったです。

――『ラブコメの法則』などを読んでも分かるように、東山さんは映画もお好きだと思うんですが、いつ頃から観はじめるようになったんですか。

東山:台湾ではわりと映画が身近にありました。夜の9時10時に「さあ、映画に行くぞ」といって、大人たちが連れていってくれる。自分でよく観に行くようになったのは中学くらいから。福岡にセンターシネマという映画館があって、僕の記憶が間違いでなかったら、1本300円でリバイバルの映画をやっていた。もうひとつ、天神映劇というところがあって、そこは500円で2本立てでした。わりといい映画がかかっていて、『ドラキュラ都へ行く』とか『夜の大捜査線』とか『ゾンビ』などを観ました。そういう感じで、中学、高校の頃は映画と音楽ばかりでした。

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プロフィール

東山彰良 (ひがしやま・あきら)
1968年台湾生まれ。5歳まで台北で過ごした後、9歳の時に日本に移る。福岡県在住。2002年、『逃亡作法 TURD ON THE RUN』で第1回「このミステリーがすごい!」大賞銀賞・読者賞を受賞し、デビュー。2009年『路傍』で第11回大藪春彦賞、2015年『流』で第153回直木賞を受賞。