その1「幼稚園児の頃から名作文学全集を読む」 (1/6)
――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
碧野:『書店ガール4』にも登場させた、小学館の「少年少女世界の名作文学全集」全50巻ですね。絵本を読んだ記憶はなく、総ルビのその全集を読んでいました。幼稚園の1年目だったかに読んだのかな。3歳上の姉が小学校に入る時に母に文字を教わっているのを後ろから覗き込んで、覚えちゃったらしいんですよ。それで、姉のために買ったその全集を私のほうが読んでいて、親は「神童じゃないか」と思ったらしいんですが、中学になる時はただの人になっていました(笑)。
なぜそれらを読んでいたのかというと、引越しが多かったからなんです。1960年代に父がマレーシアのクアラルンプールに赴任になったんですが、当時は海外赴任自体がまだ珍しかったので、まず父が1人で赴任して、残された私たちは母の実家に1年いて、それから大丈夫だということで呼び寄せられてクアラルンプールに行ったんです。ですから名古屋で生まれて、母の実家のある佐賀で1年過ごして、それからクアラルンプールで1年過ごして、また佐賀に戻って、数か月で名古屋に戻って、それから2年後にまた引越し......というように転々としていました。佐賀ではまわりが田んぼだらけで近所に友達がいなかったですし、本が遊び相手でした。
その全集が私には決定的な影響を与えていますね。いろんな国のいろんな話が載っていて、いろんな面白さに触れることができたんです。結構むちゃくちゃなラインナップでしたよ。「方丈記」や「カレワラ」や「聖書物語」から、「小公子」「小公女」「海底二万里」「シャーロックホームズ」まであって。少女小説からSFからミステリから冒険小説から純文学ぽいものまで載っていたので、「物語にはいろんな面白さがある」ことを知ったんです。本が好きな人でも「このジャンルだけ読む」「この作家さんばかり読む」ということは多いと思いますが、私は「いろんな作家のいろんな面白い話がこの世にはいっぱいあるから、一人の作家ばかり読んでいてもつまらないじゃない」と思う。それはこの文学全集を読んだことが影響しているかなと思います。
もうひとつ、その全集から影響があったのは「海外のお話のほうが面白い」ということ。昭和30年代だと日本ではエンターテインメント小説がそれほど豊かではなく、児童文学にしても「山椒大夫」や「赤いろうそくと人魚」などでしたから、どこか辛気臭いんです。それに比べるとやっぱり「美女と野獣」や「十二月物語」や「くるみ割り人形」やグリム童話、「赤毛のアン」や「あしながおじさん」、「若草物語」のほうが夢があって面白いなと感じました。それが後々まで影響しています。
――幼いうちに全50巻読破したのですか。
碧野:毎月1冊ずつ送られてきていたので、全50巻だから4年ちょっとかかったと思います。毎月来るのが楽しみでした。それが幼児体験としてあるのと同時に、一緒に住んでいたいとこが漫画を買っていたことも大きかったですね。幼稚園の頃に少女漫画をはじめて読みました。母の実家に一畳くらいの部屋があって、そこに読み終わった週刊誌と漫画がいっぱい置いてあったので、それを拾って勝手に読めたんです。水野英子の「白いトロイカ」とか牧美也子「マキの口笛」、楳図かずおの「黒いねこ面」、古賀新一の「ママが怖い」などですね。そうやって漫画を読んでいたのが幼稚園の1年目くらい。2年目にマレーシアに行ったのですが、そこに日本人クラブというのがあったんです。みんな日本の書物に飢えているから図書室もありました。そこに読み終わった漫画を置いてくださる方がいて、その中に『りぼん』があったんですよね。北島洋子の「スイートラーラ」という伯爵令嬢の物語をすごく楽しみにしていました。幼稚園は現地の園に車で通っていて、日本人の友達が1人だけいたのでその子とずっと喋っていたんですけれど、家に帰ると友達もいないので本を読んでいました。
帰国して小学校に入学した後1か月で名古屋の学校に転校したんですが、転校生って妙に目立つのでそれがすごく嫌で、大人しくグラウンドの隅でポツンと立っていた記憶があります。どうしたら目立たないですむんだろうと考えていました。だから「本は友達」で、常に図書の貸し出しがクラスでナンバー1という子どもでした。小学校高学年は世界文学名作全集に載っていたものの続編、たとえば『赤毛のアン』シリーズ全巻や『あしながおじさん』の続編を読んでいました。加えて一般的な児童文学、『ナルニア国物語』などもその頃に読みました。ほかにはホームズやルパン、クリスティの『青列車の謎』などのミステリも読みはじめました。ノンフィクションのシリーズもちょっと読みました。『決死の脱走作戦』という、チャーチルやマリー・アントワネットたちの脱走作戦が書かれたものが印象に残っています。チャーチルが脱獄する時に、差し入れのマカロニの中にたこ糸を入れてもらって、それを編んで脱走したというんです。今考えるとそれって本当だったんだろうか、と思いますけれど(笑)。他には西洋のお城の写真集のシリーズが好きでした。それで、学校の授業では西洋史を教えてくれないことが不満だった頃に『ベルサイユのばら』の連載がはじまって、嬉しかったですね。
――幼い頃から全方位押さえている感じですよね。
碧野:広く浅くなんですよ。漫画もその頃はよく読んでいました。『マーガレット』の黄金期で、「エースをねらえ!」と「ベルサイユのばら」が同時に連載していました。でも好きだったのはその前の志賀公江の「スマッシュをきめろ!」で。「コートにかける青春」というタイトルでテレビドラマ化されていました。ほかには西谷祥子の「こんにちはスザンヌ」とか、『りぼん』で連載されていた山岸凉子の「アラベスク」とか、すごく好きだったな。
――やはり外で遊ぶよりも家で読書するほうが好きだったのですか。
碧野:親から「そんなに本ばかり読んでいないで外に遊びに行きなさい」と言われて、それがすごく嫌でした。本を読んでいても文句を言われないようになりたくて、小学校の授業で将来の夢を聞かれて「本に関する職業に就きたい」って発表したんです。うまいこと答えたつもりだったんですが、すかさず先生からツッコミが入って「本に関係した職業といっても作家とか編集者とか本屋さんとか、印刷の人とかいろいろいるけれど君は何がいいの」って言われて答えられませんでした。そのことが大学時代に至るまで漠然と残っていました。
――自分で物語を空想したり文章が漫画を書いたりすることはなかったんですか。
碧野:ほとんどないですね。読むほうに忙しくて。「そういうものを作る人は特別な人」という意識があったから、自分でできるとは到底思っていませんでした。唯一やったのは、小学校5年生の時に志賀公江の『亜子とサムライたち』という、すごく好きだった漫画の最終回が納得いかなくて、自分でちょっと続きを文章で書いてみたことくらい。それも面倒くさくなって途中でやめました。主人公と男の子2人の三角関係みたいな話だったんですが、最後に彼女が選んだ男の子よりも、もう一人のほうが好みだった、みたいなくだらない理由です(笑)。
――当時、読書日記はつけていましたか。
碧野:まったくつけていなかったんです。ただ、読書感想文を書くのは得意でした。当時は毎日、漢字と日記と自由勉強の宿題が出たんですが、自由勉強は自分でテーマをひとつ決めてノート1ページに何か勉強して書けばよかったんです。そこで算数や理科は一生懸命やっても二重丸や三重丸なのに、読書感想文を書くと必ず五重丸をもらえました。私からしたら一番ラクなのに。で、あんまりこの手を使うとまずいと思って、たまにしか書きませんでした。ちょっとひねくれていたんです。小学校5年生の時に「義務教育だから嫌でも学校に行かなきゃいけない」って思っているような子どもでした。だから作文の内容も大人が喜ぶようなことは書かなくて、すごく褒められたということはなかったですね。作文コンクールで入賞したとか、そういうことはなかったですよ。
――どこか冷めた子どもだったんでしょうかねえ。
碧野:たぶん、ちょっと冷めてたのかな。