その1「読書に目覚めるまで」 (1/6)
――奥泉さんは山形のお生まれなんですね。
奥泉:母の実家があるんです。奥泉は母の姓で、一人娘だったので父が婿養子になったんです。それで山形にいたんですが、結局すぐ東京に出てきて、そのまま東京や埼玉で育ちました。山形の家には夏休みに帰ったりしましたね。今では母が住んでいます。
――幼い頃に読んだ本は憶えていますか。
奥泉:絵本などは具体的には憶えていませんが、印象に残っているのは小学校低学年の頃に読んだ図鑑。動物や鉱物など幅広く載ったものをずっと読んでいました。そういえばシートン動物記やファーブル昆虫記も好きでした。
漫画も読みましたよ。ちょうど『少年マガジン』や『少年サンデー』が出てきた頃で、自分で買うよりも友達の家で見せてもらうことが多かったかな。でも、僕よりもちょっと上の四方田犬彦さんの『日本漫画への感謝』を読むと、貸本時代の漫画をものすごく読んでいる。そういう人に比べたら僕なんてほとんど読んだうちに入らないと思います。
――読書が好きな子供でしたか。
奥泉:特別本が好きな子供というわけではなく、どちらかというとスポーツが好きで野球やサッカーをやっていました。作文も嫌いで、算数のほうが好きでしたし。うちは両親が学校の先生なんです。母が口先だけの教育ママといいますか、実行力はともなわないけれども「本を読みなさい」「勉強しなさい」と言うほうだったんです。そんなものだから、当時は自分は人より本を読んでいないんじゃないかと思っていました。大人になってから、少しは読んでいたと気が付きましたけれど。
――はじめて「面白い本を読んだ」と実感したのはいつぐらいですか。
奥泉:小学校4、5、6年生ぐらいですね。これは面白いなあと思う本と出合ったのは、新本格のミステリ作家の人たちがみんな挙げる、あかね書房の『少年少女世界推理文学全集』。子供向けにリライトしたコナン・ドイルや「赤い家の秘密」、「黄色い部屋の謎」などが入っていて、装幀もなかなか洒落ていました。『十五少年漂流記』や『黄金虫』なども読みましたね。早熟な子供でもなかったので、子供向けにリライトされたものを素直に面白がっていました。江戸川乱歩の少年探偵団のシリーズや、子供向けのルパンやホームズのシリーズも3、4年生くらいの頃に読んだのかな。
決定的だったのは、もういろんなところで何度も言っていることですが、小5か小6の時に読んだ夏目漱石の『吾輩は猫である』です。当時は旺文社文庫の箱入りで、黄緑色の装幀の文庫本で出ていました。名作だけを集めたレーベルだったんですが、途中から普通の装幀に変わっていましたね。この文庫が優れていたのは、ページの左側に註がついていたところ。後ろのページをめくっては前に戻るということをしなくてよかった。ルビも総ルビに近いような感じで、だから小学生でも読めたんです。
なぜ手に取ったのか分かりませんが、後で思うと、当時から文学というものには関心があったようです。小学6年生の時に川端康成がノーベル賞をとったので近所の本屋さんに買いに行って「偉いね」と言われたんですが、その時に『詩の作り方と鑑賞』という本も買っているんですよね。どちらも最後まで読まなかったんですけれど(笑)。
――小学生にとって『吾輩は猫である』のどういうところが面白かったんでしょうか。
奥泉:迷亭や寒月といった人物の面白さもあったでしょうね。小学6年生の時の感想文が残っているんですが、それを読むと登場人物たちが文明論的な議論を交わしている場面について感想を書いている。そんな風な読み方をしていたのか、と思いました。とにかくこの小説が大好きになって、もう何回読み返したか分からないくらい。半分くらいは暗唱できましたね。冒頭はもちろん、ある章のある部分とか。「三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞の感はあるが...」とか。その後、『こころ』や『道草』も読みましたがそれほど面白いと思いませんでした。『坊ちゃん』は面白かった。ユーモアのあるものがよかったんでしょうね。
出合いはもうひとつあるんです。当時はそれぞれの家庭で文学全集を買うというのがあって、うちにはなかったんだけれども友達の家に『世界の名作文学』があって、そのなかのいくつかを読んだんですね。そのひとつがジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』でした。この滑稽小説のムードが本当に好きになっちゃって、これも何回読んだか分からない。今になってみると、僕の小説家としての原典は『吾輩は猫である』と『ボートの三人男』ですね、どう考えても。このふたつの影響は圧倒的。