その1「小説の主人公の真似をして...」 (1/5)
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- 『城の崎にて・小僧の神様 (角川文庫)』
- 志賀 直哉
- KADOKAWA / 角川書店
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――山田さんは1934年、浅草のお生まれですが、幼い頃の読書環境といいますと。
山田:小さい頃は、講談社の絵本というのが僕らの世代の定番でした。「浦島太郎」や「桃太郎」といった話が1冊ずつ絵本になったものです。でも、いわゆる児童向けの本、例えばアンデルセンの童話や日本の創作童話のような本はうちにはなかったので、むしろ『のらくろ』や『タンクタンクロー』などの漫画をよく読んでいました。もう少し大きくなってからは、うちにある落語全集や講談全集といったゾッキ本の分厚いものを読みました。落語や講談はラジオで聞いていましたから、そんなにきちんと読まなくても、どんな話かはすぐ分かりました。
――10歳の時に湯河原に疎開されたそうですが。
山田:敗戦が小学校5年生の時で、それを基準にして考えると、どうも小5の夏のことだったと思うんですが、獅子文六さんが本名の岩田豊雄名義で書いた『海軍』という小説がベストセラーになって、僕もそれをなぜか読んでいたんです。真珠湾攻撃の際に潜水艦に乗っていた九勇士の一人をモデルにして格好良く書いた話なので、戦後に読んだはずはないから、たぶん敗戦の直前でしょう。その小説の中に、肌が日に焼けていると逞しく見えるといって友達と浜辺で焼きはじめたけれど、主人公以外はみんな途中で逃げ出したという場面があった。それを読んで、僕も湯河原の吉浜でやってみようと思ったんです。そうしたら背中が火ぶくれになってしまって。あの頃は薬もないですから、もう痛くてしょうがない。本ってうっかり信用するとえらいことになるんだ、と懲りた覚えがあります(笑)。
――中学生に入ってからはいかがでしたか。
山田:他でも書いたことがありますが、志賀直哉の『母の死と新しい母』という小説を読みました。当時はみんな病院ではなく家で亡くなったものですが、私の母も家で死んで、僕はそれを傍で見ていた。『母の死と新しい母』では、だんだん呼吸が間遠になっていく感じがとても上手く書いてあって、文章ってこんなにも力があるものなのかと感動しました。それから志賀直哉を読むようになりました。『焚火』という作品は、小さな湖のほとりで焚火をしていて、夜になってもう終わり、という時に燃え残った焚き木を湖面に放るんです。するとボシュッとすぐに消えるのではなく、パーッと散ってしばらく湖面に明かりが残って、すっと消える。この描写に感動しましたね。
――読書は好きでしたか。
山田:うちにはほとんど本がなくて、インテリっぽい空気は何もなかったんですが、中学の1、2年生の時の国語の先生が素晴らしかったんです。1年生の時は韻文が好きな先生で、芭蕉と蕪村の句を暗記させられました。三好達治も暗誦させられましたね。復員した代用教員の先生で、勝手放題で、ベレー帽にパイプをくわえているような、当時はあまりいないような格好いい先生でした。もう一人の国語の先生は、その先生のことを「甘ったるい文学青年め」みたいなことを言う。それで「お前は俺のところに来い」と言われて、クラス替えでその先生の担任のクラスに呼ばれてしまって。この先生は戦争中にヒロポン中毒になっていて、当時は証明書があれば薬局でヒロポンが買えたので、僕もよく買いに行かされました。でもさすがに先生もこれではいけないと思ったんでしょうね。薬が抜けるまで体育の器具室にこもって、数日間出てこなかった。そういう姿を見て、生徒はみんなこの先生を尊敬したんです。今ならクビになるところでしょうが、そういう偽善的でないところがよかった。その先生が本を貸してくださって、『罪と罰』や『椿姫』や『レ・ミゼラブル』といった、二段組みの世界文学全集を読みました。それまで本のない生活を送っていたから飢えていたところがあったのかもしれませんが、そういうものが読みたくて読みたくて仕方なかったですね。