第3回 色とりどりの小鉢料理、お任せで続々と。
種市先輩に会いにあまちゃんが通う寿司屋がある。2013年に放送されたNHKの朝ドラ「あまちゃん」での場面だ。福士蒼汰さん演じる種市先輩と能年玲奈(現:のん)さんが演じる天野アキちゃんとの甘酸っぱい恋物語が紡がれた場所が、神田のガード下にあった今川小路だ。
"あった"と書いたのは、すでに閉鎖されてしまった小路だからだ。
JR高架下の狭い路地。両脇に小体な酒場が立ち並んでいた。右から見ても左から見てもザ・昭和。その風景に魅了されて、なんの用事がなくても、ふらり散歩をするほどに気に入っていた。壊されたら再建不可能、唯一無二な酒場小路。それが平成の時代にまだ残っている。宝物のように慈しんでいたのだけれども、ついに閉鎖の時が来てしまった。その報せを耳にするや、懇意にしているカメラマンと、最後の時間を記録しようと足を運んだのが、2017年10月。すでに9割方の店は閉店し、かろうじて3軒ほど最後の営業を続けていたところだった。その中の一軒が「まり世(まりせ)」。あたし自身未踏の酒場だった。
吸い寄せられるように扉を開けると、店内はぎゅうぎゅうの大賑わい。閉店まであと8日。みんな最後の別れに訪れているのだ。
「酒場が閉店する最後の時間は、常連さんたちのためのもの」を信条としているので、そっと扉を閉めて店を後にしようと思った矢先、「入って、入って!」。声をかけてくれたのが二代目女将の横堀みちよさん(通称みっちゃん)。7名も入ればもう満席な狭小空間に、カメラマンと二人、むぎゅっと入れ込んでもらう。常連さんたちも「どうぞ、どうぞ」と大歓待で迎え入れてくださり、女将目の前の特等席カウンターに座らせてくれた。
女将も常連さんも、我々が一見の客であることは百も承知。なのに、最後の時を共に過ごすことを喜んでくれる。なんて温かな人たちだろう。
「まり世の"今"をぜひ覚えておいてほしい」
そんな言葉までかけて頂き、感激もひとしお。
色とりどりの肴を美しく大皿に盛り込んだものや、美酒の数々を出して下さりながら、先代女将(みっちゃんのお母様)のことを語ってくれる女将と常連さん。あたしも先代女将時代からここに通っていたかのような心持ちになる。
紐を引っ張る旧式タイプのトイレも遺産級で、この空間が無くなってしまうのは、実に惜しい。せっかく親しくなったのに女将とも常連さんたちとも一夜限りの縁なのか...。残念に思っていたところ、「まり世」は移転先が決まっているとのこと。移転場所まで教えていただき、再会を誓って別れた。
***
それから2年後。確か、あの時教えてもらった移転先はここだな。ひとりふらりと神田の別のガード下に向かう。おお、あった、あった、「まり世」の看板が出ている。けれども、灯りはついていない。扉にも「クローズド」の札が下がっている。今日は定休日か。いや、しかし。ドアの小窓から覗き込めば、客もいてみっちゃんもいる。なるほど、今日は貸切なんだ。そんなことが3回ほど続いたある日。ご挨拶だけでもできればと、思い切ってドアを開けてみると、
「あ! 倉嶋さん」
ひと目でみっちゃんが気づいてくださった。今川小路での最後の日から2年半も経ってしまっているというのに。記憶力の凄さにびっくりした。
「座って、座って、呑んでいって」
「今日、貸切じゃないですか?」
「違うよ」
「看板の灯りもついてないし、クローズドが下がってますよ」
「いつもそうなの」
呆気に取られた。
看板の灯りもつけなければ、札もクローズドのまま。なのに、絶賛営業中。しかもこの日もいい賑わいだ。
「混んじゃうとさ、大変じゃない」
サラリと言うみっちゃん。その豪気さにまた惚れた。
以来、ひとりでお邪魔することが常になっているのだが、これまで一度たりとも看板に灯りが点っているところも、札がオープンになっているところも見たことがない。
現在二代目女将・みっちゃんがひとりで切り盛りしている「まり世」は、昭和50(1975)年に神田・鍛冶町にあった通称「長屋」で開業。みっちゃんのお母様が創業者だ。通称長屋が閉鎖されるのに伴い、昭和59(1984)年に今川小路に移転。そこで33年という歴史を重ねてきた。その最中の平成28(2016)年3月に先代女将が逝去。直後の同年5月に今川小路閉鎖により立ち退き話が出る。みっちゃんは店を引き継ぐか迷いながらも、平成29(2017)年10月18日に、現在の場所へと店を移転させた。
みっちゃんは、当時も今も、茨城・牛久から往復3時間かけて通っている。
***
92歳で亡くなられた先代女将は、亡くなる2時間前までお店に立っていらっしゃったそう。すでに具合も悪く、食欲もなくご飯も食べられない状態だったものの、それでも店に立ち続けた。店と人を愛していたのだ。そんな女将に、常連さんが胡麻饅頭を差し入れてくれた。それが最後の食事。お酒は、ビールを少しと、愛飲していたにごり酒。
「ワインも呑みたいって言っていたけれど、呑めたのかな」
先代女将が足を悪くしてから一緒に店に立つようになったみっちゃん。先代女将が亡くなった日も、一緒に店にいた。ご自身の自宅のある牛久まで帰るのに、電車の時間が差し迫り、ひと足先に店をでた。だから最後にワインを呑めたかはわからない。
最期の日ににごり酒を差し入れてくれた常連さんは、今でも毎週通ってきて、先代女将と盃を交わしている。店と人を愛した先代女将。その女将も、人に愛されていた。
「恋する女だったよね」
常連のヒロコちゃんが言う。
亡くなるまで恋をしていたのだとか。
「(漢字で言えば)冠も偏もにょうも、全てが女の人だった」
と、みっちゃん。とにかくモテてモテて仕方がなかったそう。
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「まり世」の正式な口開けは17時。この日は16時半から客が来店。大先輩の風格の常連3人組男性だ。いきなりウイスキーの角瓶をストレートでやり始める。驚いた、なんたる元気さだ。しかも13時から呑んでいるときたもんだ。
「やることがないの」
と笑う3人組。この日は京橋の画廊で展覧会を鑑賞してからのご来店なのだそう。
「絵を見てきて気持ちが高揚しているから」
とおっしゃるものの、いやいや、通常からこのペースで呑まれていらっしゃるに違いない。堂に入った呑み方をされていらっしゃるもの。
3人組のうちの社交的な紳士が、「一杯どうぞ」。
瓶ビールをご馳走くださりながら、「我々は60年の付き合いなの」。
3人組の間柄を教えてくださる。と、すかさず「付き合いたくない」。ボードに認めた文字で突っ込む連れの男性。ご病気で声が出なくなったので、筆談でのツッコミだ。
「若干しかね、お金がないんだけれどね、金も家も墓場まで持って行けないから呑むの。あと3年で死ぬからさ」
社交的紳士がそういえば、
「早く逝けばいい」
再びの速攻筆談ツッコミ。いいコンビだ。無口な紳士も含めて実に素敵なバランスの3人組。
ボトルキープしてある角瓶を手酌でやりながら、みっちゃんが用意したつまみをちょこちょことつまんでいらっしゃる。
そこへさらに常連さん来店。先代女将時代から馴染みのひとり客男性だ。口開け時間17時ぴったり。なんたる正確さ。
「うちは赤星が絶対的人気。だから、今のうちにたくさん冷やしておかなきゃ」と、冷凍庫で急冷をかけていた瓶ビール赤星を冷蔵庫にどんどん移行させているみっちゃんを見て、
「じゃあ、黒ラベルください」
人気の赤星はみんなに呑んでもらって、自分は黒ラベルでいいです、という気遣い。
そこへ女性ひとり客来店。先代女将時代から常連のヒロコちゃんだ。店に入ると即、店奥の洗面所に行き、手洗い。そのままカウンターの中に入り、冷蔵庫から赤星を取り出し、シュポッ。まるで我が家の台所のごとき一連の流れ。
「まり世」は、女将・みっちゃんのワンオペ営業。常連さんは、自分の酒をセルフで用意するのみならず、食べ呑み終わったお皿やグラスも洗って帰る。みんなでみっちゃんをサポートしているのだ、老若男女の別なく。
***
コロナ禍による規制がなくなった時、さまざまな酒場から営業再開の連絡をもらった。「まり世」のみっちゃんからも来た。会えなかった時間を取り戻すべく足を運べば、常連さんたちまでもが待っていてくれた。
新入社員時代から先代女将の「まり世」に通い、定年退職した今も変わらず常連のツッチーさんが、日本酒の瓶をずらりと並べてくれる。そして、淡い味わいのものから濃く深いものまでちゃんとグラデーションをつけた順番で呑ませてくれた。
他客のお酒の面倒までも常連さんたちが見てくれるのが「まり世」。
***
この日も常連ヒロコちゃんが、東京の地酒「江戸開城」のサステナブル酒を持参くださっていた。
「うちから百回転がっていけば、この酒蔵にたどり着くからさ」
完全なるビール党で日本酒は一滴も呑まないのにこのお気遣い。ありがたい。
さらに常連男性が、なんと27年もののワインを2本も開栓してくださる。
ミルフィーユのごとく美しき断面の白菜漬けや、翡翠色のひたし豆も、続々とやってくる常連さんたちの手土産だ。
京都出張から戻って来られた常連女性は、京都の銘酒「英勲」を造り違いで持参。数多の持ち込み酒がどんどんと封を切られていく。
まるで祭りのような様相を呈してきた。自由だ。みっちゃんの長男・智毅さんも会社の上司と共に来店し、山梨の銘酒「笹一」の限定にごり酒を振る舞ってくれる。もはや親戚の家だ。
みんなでワイワイと呑んでいたところ、
「もうカーテン下ろしちゃおう」
小さく切ってある窓のカーテンを閉めるという。完全に閉店仕様だ。しかし時刻はまだ20時前。商売をやる気がない。
この日のお会計も、2度見も3度見もしてしまうほどの激安価格。どう考えてもおかしい。
「だって、お酒はみんなが持ち込んでくれたし」
「いやいや、持ち込み料も含めてちゃんと酒代を取ってもらわなきゃ、困ります」
「多めの金額を置いていこうとする人もいるんだけれど、断るの。私、そういうの慣れてないから」
実直すぎる女将・みっちゃんは、「まり世」を継ぐ前は、洋裁の仕事をしていた。会社員だった頃に、仕事終わりに夜間部で裁縫の勉強。仕事が忙しすぎて一旦中断するも、結婚してから3年ぐらい朝から夕方までみんなの2倍以上裁縫の勉強をし、子育てをしながら洋裁をご自身の仕事にした。「まり世」を手伝うようになってからは、二足のわらじ。次男・晃誠さんが料理の手伝いをし、デパートの催事場に洋裁の出展をする時は、店用の料理を晃誠さんがデパートまで持ってきてくれて、それを「まり世」まで運んだ。三世代でお店を守ってきたのだ。
「まり世」の名物酒肴は、大皿にいくつもの多彩な小鉢が盛り込まれたワンプレートお任せ料理。品数は、大皿いっぱいに乗り切れるだけ。9~10品ほどにもなるのだけれども、実はそれだけではない。気づけばどんどんと小鉢が差し込まれてくるのだ。
この日は、アーリーレッドのマリネ、激辛たらこが塗されたにんじん、食感も楽しいきゅうりと長芋のコロコロ、生姜味でさっぱりしっとりしたネギだれ鶏肉、柚子胡椒が利いた蒟蒻、茎わかめにブロッコリー塩昆布、さつまいものサラダ、野菜たっぷりのオムレツ、そしてみっちゃん家のお正月の定番料理でもあるイカ燻松前漬け。セロリ、にんじん、きゅうり、大根も入っている。
これだけでも相当な品数なのだけれども、常連さんたちと話をしている間に、どんどんと小鉢が足されていくのだ。
バターナッツカボチャ、ピリ辛砂肝。古漬けは、先代女将から受け継いだ糠床のもの。なんたる貴重! そしてさらにもう一品。柚子胡椒パスタだ。使用されている柚子胡椒は、ここの常連さんでもあり、育てた野菜をお店に納品もしているタカダさんお手製。辛味の塩梅もよく、ファンが多い。
食べても、食べても、なくならない。だって、次々に足されていくのだから。これだけの品数があれば、それに呼応するようにお酒もたっぷりと呑んでしまうのだけれども、翌日スッキリしているのは、とにかく野菜料理が多いから。
客の健康管理にも気を遣ってくれているみっちゃん。独身客には炊き込みご飯を持たせるなどする。あたしも以前に、手作りパンを山のように持ち帰らせていただいたことがある。
常連さんたちからみっちゃんのパンの美味しさを常々聞かされていた。ただ、みっちゃんの時間がある時にしか登場しないメニューだから、タイミングが合えばラッキーくらいに構えていないといけない。そんなとある日、これから会食という時に、口開けにひとり0次会で立ち寄ったら、たまたまパンの日だった。でも、お腹を満たすわけにはいかない。呻吟していたところ、お土産に持たせてくださったのだ。
「楽しみにしている常連さんもいるから」と遠慮をすると、「いいから、いいから。また焼くから」と包んでくださるみっちゃん。姉のような存在だ。
でもこの厚遇は、あたしに限ったことではない。
会社の先輩や知人に連れてきてもらったのをきっかけに、みっちゃん沼にハマって、常連になっていくひとり呑み客が多い。みんなみっちゃんの人柄にベタ惚れだ。
「人に恵まれているの」
とみっちゃんが言えば、常連さんたちも全く同じ言葉を口々に言う。
親戚の宴会のように、一見も常連も一緒になって呑んでいる様をニコニコと眺めているみっちゃん。
「ほんと、幸せ」
この言葉が、幾度もみっちゃんの口から自然と溢れてきていた。
そんなみっちゃんといられる自分こそが、幸せ者だ。
店名 |
まり世 |
住所 |
東京都千代田区鍛治屋町1-2-14 |
電話番号 |
― |
営業時間 |
17~23時 |
定休日 |
土日 |
アクセス |
JR山手線神田駅より徒歩2分 |
※営業時間、メニュー等は変更になる場合もあります。