第10回 名古屋のお手玉歌 裏の畑のちちゃの木に

 アルバムに入れた曲の中でも最も「怖いですね」と言われる曲だ。名古屋市千種区のお手玉歌だが、歌いはじめはのどかである。

  裏の畑のちちゃの木に
  すずめが三匹 とまって
  一羽のすずめの 言う事にゃ

「ちちゃ」とは「えごのき」のことで「ちさ」「ちしゃ」がなまっている。えごのきは、「ざとうのつえ(座頭の杖)」という異名もある通り、器や杖にされる硬さの木質、種子の油は灰と混ぜて水田の肥料にしたというから庭にあれば有用だったのだろう。三匹といったり一羽といったり、数え方が統一されていないが、類歌に次のようなものがある。

   向ふから雀が三匹飛んで来た 先の雀ももの言はず、後の雀ももの言はず 真中のこびつちょが云ふことにや   (長崎・福江島)『五島民俗図誌』

  うちの裏の笹の木に 小鳥が二三羽とまつとる 西の小鳥も物言はず 東の小鳥も物言はず、中の小鳥の言ふことにや   (香川)『木田郡史』

 3つの生き物がおり、その中の真中が賢く良い、というパターンの歌はよく見られる。これは遡ると、三人の比丘尼のうち、中の一人が物知りであるという歌にいきつくようだ。真鍋昌弘によれば京を中心として、比丘尼の歌が九州と秋田や佐渡の遠方で採集されており、より古い型と言えるらしい。これは後に「三匹の猿」バージョンが全国的に広まる。「真中がよい」という考え自体は、さらに古代にさかのぼることができるとして真鍋は『古事記』でイザナギが降り立つ場所を「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し、とのりたまひて、初めて中つ瀬に堕りかづきて」と選ぶ個所を引いている (『中世近世歌謡の研究』)。
 名古屋バージョンでは、残り二羽への言及は省略されているが、一羽が語ったのは新しくきた嫁の食いっぷりについてだった。裏の畑の木で語ったのだとしたら隣家の嫁だろうか。

  お茶漬け三杯 汁四杯 それでもまんだ 足らんとて
  お彼岸団子七いかき 宮重大根十二本
  そんな嫁御は 出てかんしょ
  出て行く道で 子がひとり
  男の子なら拾い上げ 女の子なら踏みつぶせ

 大食いの嫁様のくいっぷりに、口角が自然とあがる。しかし、大食いの嫁様が追い出されるとなぜか子が生まれる。腹が膨れてすぐ生まれるところが、子どもたちのイマジネーションか、大人たちのブラックユーモアか。そこには現代人にはなかなか受け入れがたい間引きの風習が生々しく歌われている。類歌には次のようなものがある。

  「女ができたらふみつぶせ 男ができたらとりあげろ」(群馬)
  「女のお子ならおっちゃぶせ 男のお子ならとりあげろ」(茨城)
  「男ならたすける 女ならぶっつぶせ」(岩手)

『日本庶民民俗集成 第24巻 民謡・童謡』を見る限りでは、西の歌は少ないが、東日本の広い範囲で間引きが行われてきただろうことがわかる。実際に撲殺や圧殺もあったというから、大げさな表現ではない。松永伍一は子殺しが女児に偏っていたことについて、労働力としての男性を優位にみた男尊女卑、英雄待望の願いや尚武を尊ぶ思想があったことをあげながら、子供を間引いたある女の「死んでも地獄よりほかへはいかぬと思っている。もどした子どもらも、そこで暮らしていると思う。死んだらそこへいって少しでももどした子らを守ってやりたい」というつぶやきを引く(『日本の子守唄 民俗学的アプローチ』)。「日本の社会機構は女を奇形化した」と松永は書いた。全国から女人が集まり、女人往生の信仰の中心としてさかえた富山の芦峅寺の布橋大灌頂でさえ、女は男にいったんならなければ往生できないという信仰があった。それは、血の穢れを説いた血盆経の影響であったが、月経は本来生命誕生に欠かせぬものであり、そのために、女人が貶しめられるのは、今の感覚からすると違和感がある。しかし、この間引きの多さを考えた時、当時の女性たちが、心から救われたいと念じて立山に集った気持ちが分かるような気がした。何度となく子どもを「もど」すしかなかった女たちの悔恨と虚無感こそ、こうした女人信仰を陰で支えていたのではないだろうか。

 子殺しは、江戸時代に最も盛んに行われた。貧困に苦しむ農村と、不義密通が増えた都市部でそれぞれに行われてきたという。

  女の子だとてそうもやしんでくださるな
  13なったら機織り教えてよめらかすよめらかす

 はじめてこの歌詞を見たときに、この最後のフレーズは堕胎を社会の暗黙の了解として強いられた女たちの静かな抗いのように感じた。そしてそれは「機織り」という女性こそが活躍できる生業が産業として勃興していった地域から、女児殺しの抑制になっていったと思われる。八丈島では幕府に献上もしていた「黄八丈」の織り手として、野良仕事から解放された女性が多かった。そのために色白を意味する「八丈美人」という言葉が生まれたと聞くが、そのような女性が有用とされた地域は多くはなかった。日本の広範囲で、従来、力仕事や出世し家をもりたてる、という点で男児のように期待されることのなく殺されていた女児が、将来の有望な稼ぎ手として認識されていくのは、紡績業が明治に入って国家産業となってからだった。

  その子は何っ子女の子
  女の子なれば育てましょう
  三つになったらお化粧だて
  七つになったら帯解きよ
  帯解き帯解き八つまで
  八つになったら学校へ
  学校学校十四まで
  十四になったらお仕事へ
  お仕事お仕事二十まで
  二十になったら嫁にあげよ  (埼玉)

 女郎に売られるでもなく、家を離れる「奉公」でもなく、「お仕事」という言葉は新しさをまとっている。秩父や入間は製糸など紡績産業が発達した。この土地で女の子の「お仕事」は、明治以後の学校教育と共に、結婚までのルートの中にしっかり組み込まれている。しかし、真鍋は紡績工場の過酷な実情を指摘し、生かされた女児たちが経験したのは「青春の墓場」であり、「人権上の「間引き」」であると形容した。

 細井和喜蔵『女工哀史』の巻末には、女工たちの歌が信時潔によって採録されている。これを見ると、初期紡績工場の悲惨さが映し出されているかのようだ。そして彼女たちの歌は守子歌ととてもよく似ていた。類歌とともに挙げてみる。

  「主とわたしはリング(輪具の精紡機)の糸よつなぎやすいが切れやすい」
   (「わしとあなたは掛井の水よ 澄まず濁らず出ず入らず」熊本)

  「うちさ行きたいあの山越えて 行けば妹もある親もある」
   (「はよう行きたやこの在所越えて 向こうにみえるは親の家」京都)

  「辛い寄宿にいれられて 朝は四時半に起されて、五時が鳴ったら食事して」
   (「いぬにゃ叱られ、子にゃなかれ、人にゃ楽なよに思われて、頭の髪はむしられて」高知)。

 他家で守子奉公をしていた少女たちが、今度は工場の住み込み労働者になったということである。女工歌には女郎より辛い、と歌うものもある。当時のルポを読めば上司の慰みものにされた、という声もある。次第に環境は改善されていったが、初期は結核が蔓延し、タコ部屋のようなところに蒲団が並べられ、昼夜12時間ずつ働くために、二人で一組の布団を使わされたところもあった。

 最近、インドなど途上国の間引きを伝えるネットニュースをいくつか見かけた。コメント欄を覗くと、ほとんどが野蛮な間引きを糾弾する声であり、ほんの100年前日本でも同じことが起きていたと知らない人が多そうだった。一人、年配と思われる人が「70年代まで地方でもまだ残っていた」と書いていたが、そのコメントには低評価の数が多くなっていた。間引きを問題にするのであれば、現代社会の障害の有無を調べる羊水検査もスマートな形での間引きにつながる。羊水検査の結果障害が分かると9割以上の人が堕胎するという。色々な事情や考え方があるにせよ、そこには多かれ少なかれ優生思想が入り込んでいる。間引きを要請するものは、その社会の「常識」であり「良識」である。その考え方にどれほど、女性が馴染んだつもりでいても、自分自身に言い聞かせたつもりでいても、堕ろした女が抱える割り切れない感情は、今も昔も同じであろう。

「女の子」が殺された時代、彼女たちは殺されず生きながらえても、やはり背負うものが多かったのだと言えるだろう。

2020年9月21日福岡 日時計の丘(グランドピアノ)