8月9日(火) ロシア文学者の競馬エッセイを読む
法橋和彦『月をみるケンタウルス』(未知谷)は、いきなりトルストイの話から始まる。トルストイが政府公認の街娼を買うようになったのは十六歳のころで、たちまち夢中になる。これではいかんと何度も反省するもののやめられず、そのうちに女遊びだけにとどまらず、賭博までするようになる。
カルタ、ビリヤード、ルーレットなど、勝ったことは一度もなく、1回1000ルーブル単位で負け、ひどいときは3日3晩ぶっとおしで3000ルーブル負けたこともある。50ルーブルあれば、2食賄い付きで1カ月下宿できた時代の3000ルーブルはすごい。
で、そういうトルストイの話から始まったエッセイは、ゆっくりとテンポイントの話に移っていく。テンポイントは1970年代後半に活躍したサラブレッドで、トウショウボーイ、グリーングラスと並んで3強の時代を作ったが、1978年、66.5キロの酷量を背負った日経新春杯のレース中に骨折、43日間におよぶ治療の末に死。悲運の名馬と言われている。
いまさらテンポイント、と思われるかもしれないが、この『月をみるケンタウルス』は1979年ごろに日刊スポーツに連載されたエッセイを40余年ぶりに単行本化したものであるから、この本の中では現役の名馬なのである。だから、トウショウボーイもいれば、エリモジョージもいる。あのころの名馬が次々に蘇ってくる。とても懐かしい。
法橋和彦は、大阪外国語大学の名誉教授で、『トルストイ研究』や『プーシキン再読』などの著作を持つロシア文学者である。だから、スポーツ新聞に連載された競馬エッセイでありながら、トルストイを始めとして数々の文学者、そして文学作品が登場する。出てくるのは、ロシア文学だけではない。
たとえば、一茶を紹介する回がある。一茶は「小ばくち」が好きで、「小ばくち」しながら旅をしたという。本書から引く。
「野ばくちが打ちらかりて鳴くひばり」原っぱにむしろを敷いて、行きずりの人とサイの目を争う。一宿一飯の金をなくなり、貧窮して精神的にも救われないこのような旅を、彼はなぜ続けたのだろうか。文化一三年、長男が生まれてお七夜に当たる日も一茶は行脚に出ていた。そして矢立てに書きとめた一句が、かの有名な「痩蛙まけるな一茶是に有り」であったという。
この句は、一茶が小兵のカエルに小銭を賭けたときに、思わず発した声援の歌である、と書いたあとに著者はこう続けている。
一茶は生涯、勝ち目のない弱者に賭け続けたのであろう。負けても負けても年があらたまると「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」と一向にばくちから足を洗う気配はみせなかった。
一茶がそういう人間であるとは知らなかった。途端に親近感をいだくのである。
そうか。本書の見出しを幾つか並べてみれば、この本がどういう感じのものであるかを分かっていただけるかもしれないので、ここに並べてみる。それは、こうだ。
夏の中京万馬券を論じてマラルメの詩おもう
小倉戦牝馬の好走見て火野葦平『花と龍』を思う
エリザベス女王杯に思うヴァレリイの「海辺の墓地」
ダービーに萩原葉子の『蕁麻の家』を思う
日本中央競馬会の馬事文化賞は,さまざまな賞に贈られてきたが、学者先生のエッセイにきわめて弱いという特色を持っている。ギャンブルの後ろめたさが権威に擦り寄るようで(そんな気持ちはないのだろうが、残念ながらそういうふうに見えるということだ)、大変よくない傾向だと考えているが、しかし本書は文句なしの受賞決定本だろう。候補作を選ぶ人がこの書を見落とさないように、当欄で念を押しておきたい。
慈味あふれる競馬エッセイの傑作だ。