第4回 マインドコントロール研究の第一人者に聞く「洗脳ってなんですか?」(中編)
洗脳の見極めポイントは「うちに潜む自覚のなき恐怖」があるか
洗脳やマインドコントロールされた人を、第三者が外見や言動から一見にして見抜くことは不可能であるーー。
立正大学大学院心理学研究科の西田公昭教授から、そのようなお話を聞かせていただいた私は、自分が「洗脳」というものに対してある種の先入観を抱いていたことに気づかされました。
これから「洗脳とは何か」を追い求めていく際に、非常に重要な「気づき」となったと思った一方で、すぐに新たな疑問も浮かんできました。
安倍晋三元首相銃撃事件後、ジャーナリストや専門家の皆さんはメディアに出演して、「旧統一教会の信者というのは、トップの田中富広会長まですべて洗脳されています」ということを盛んに語っていました。その結果、「旧統一教会=洗脳カルト」というイメージが一般常識のように浸透をしたのはご存知の通りです。
しかし、冷静に考えればこれは不思議な話です。洗脳されているか否かを第三者が見抜くことができないのだから、普通に考えれば「旧統一教会の信者は洗脳されている」などと断言できるわけがありません。
にもかかわらず、みなさんあれほど自信満々で言ってのけていたということは、外見や言動ではなく「洗脳されている」と見極めるポイントが存在している、ということなのではないでしょうか。
そんな素朴な疑問を伝えると、西田教授はこのように説明してくれました。
「そうですね、見るべきポイントはいろいろありますが、実は"恐怖"というのは大きいかもしれません。先ほど窪田さんは、マインドコントロールは恐怖で支配されている状態だと考えていると言いましたね。それは確かにその通りなのですが、ひとつ大きな誤解があって、この恐怖というのは普段から感じているものではないんですよ」
西田教授によれば、人間というのは絶対的な権威や教義を前にすると、心の中にそこに合わせて生きなくてはいけない、という義務のような"壁"が確立されるそうです。絶対的な権威や教義が正しいと生きている人は、この"壁"の内側なら、自分の頭で好きに物事を考えて、自分の意志で何かを決めることができますが、"壁"の外に出ようとすると途端に恐怖に襲われ、思考停止になるというのです。
「窪田さんは旧統一教会の信者たちは、自分で考えたことを自由にいろいろ発言としていたと言いましたけれど、それは彼らがこの"壁"の中にいてそれに触らない限りの自由があるからなんです。でも、好き勝手に自分の考えを述べている人も、教祖の文鮮明氏やその妻の韓鶴子氏、そして教義を否定するようなことは絶対できませんよね」
「ええ、信者にとっては、何よりも大切な存在ですからね」
「だから、そのようなことを考えること自体やめてしまいます。"壁"に触れたり越えたりしようとすると凄まじい恐怖を感じて、自分の感情を押し殺します。アメリカのラオリッチという学者はこれを"自己封印システム"と呼んで、マインドコントロールとは、このような状態だと説明しています」
「なるほど」と頷いてはみたものの、あまり腑に落ちませんでした。それはなにも旧統一教会に限った話ではないような気もしたからです。
現代社会にはさまざまなマインドコントロールが蔓延
宗教の信者は基本的に、自分が信じる教祖や教義は否定しません。否定する時は棄教した時です。そもそも、これをしてはいけないという戒律や、この決まりを破ったら天国に行けないなど、宗教というもの自体が「自己封印システムの塊」のような印象さえあります。
また、それは宗教だけではありません。この社会を見渡せば、さまざまな企業や組織のなかに絶対的な力を持つ「権威」や「権力者」がいて、彼らが決めたルールや考え方があって、そこに合わせて自分を殺している人たちもたくさん溢れています。コロナ禍で「同調圧力」という言葉が注目を集めたように、日本人は「自己封印システム」のなかで自分を殺しながら生きているようにさえ思えます。
つまり、「自己封印システム」がマインドコントロールならば、現代社会そのものが、マインドコントロールで成り立っている部分もあるということになるのではないでしょうか。
そんな疑問を投げかけると、西田教授は頷きながらこんなことを言いました。
「その通りです。実はこのような形で人を知らない間に支配下に置くということは、程度の差を無視すると、社会のいたるところに溢れているものなんですよ。詐欺商法やブラック企業、体育会系の運動部などでも見られることがあります。最近ではネットやSNSで拡散されている陰謀論を信じる人たちにも、一種のマインドコントロール状態にあるかも知れないです」
これには非常に納得しました。自分自身にも身に覚えがあるからです。大学時代、体育会運動部に入っていた時、先輩からどんな理不尽な命令をされても従っていました。テレビ業界に入ってADをしていた時も、令和ではあり得ないブラック労働と暴力を受けながら、奴隷のように逆らうことができませんでした。
今思えば、なぜあの時の自分は、あんな理不尽な命令やパワハラを受け入れていたのかと不思議でなりませんが、あれも一種のマインドコントロールだったのもしれません。
なぜ旧統一教会のマインドコントールだけが問題視されるのか
ただ、そうなると別の疑問も浮かびます。社会のいたるところにあるものなのに、なぜ旧統一教会のマインドコントロールだけが、ここまで問題視されるのでしょう。そう尋ねると、西田教授は即答しました。
「根底に戦前の日本を思わせるような全体主義思想が垣間見えるからです。我々は学校などで、あの時代は全体主義だったとしてヒトラーやファシズムを学びましたが、まったくその経験のない現代日本人には正直ピンとこなかったのではないですか。私もそうです。でも、旧統一教会を見て"ああ、こういうことか"とわかりました」
西田教授が旧統一教会を全体主義だと感じるポイントのひとつ目が、「集団への絶対服従」です。教祖の唱えている教義や指示に対して思考停止して、全面服従するということで、信者は生き方を自分の頭で考えないで済むようになっているといいます。実際、西田教授が話を聞いた元信者は、脱会をしたことではじめてそれに気づいて、自分でいろいろと考えるようになったと述べているそうです。
続いて2つ目が「批判の封鎖」。教祖や教義を否定できないということは、言論の自由もないということです。そして、3つ目が「私生活への干渉」。これはいわゆる合同結婚式や、自由恋愛の禁止などのように、教義のために個人が生き方を選択する自由を奪うようになっているというわけです。
このお話を聞いて気になったのは「私生活への干渉」です。世界にはさまざまな宗教があって、女性は肌を見せてはいけないとか、身分の違う者同士は結婚してはいけないなど当たり前のように「私生活に介入」をしています。それを全体主義というのならば、全ての宗教に当てはまるのではないでしょうか。
「ええ、確かにそれは一部の外国ではそうですが、それを脅したりして強制していますか? それから規制の是非を個人的に検討し受け入れないという選択の自由をなくしていませんか? それらは、個人の尊厳を大事にする自由主義国においては、プライバシーの侵害として、他人に干渉されるものではないとしているはずです。つまり問題なのは『過干渉』なのです」
これは正直、「難しい問題だな」と感じました。西田教授の言わんとしていることもよくわかりますが、一方で旧統一教会は「神様のもとで一つの家族になる」という教義です。つまり、外から見れば全体主義的と見られることも、彼らからすれば「信仰」なのです。西田教授はさらに続けます。
「また、そういう宗教の多くは、信者になる前の社会において、どんな教義なのかは知られているじゃないですか。もちろん、一族がずっと信仰をしていて他に選択肢がないというケースもありますが、多くは教義に納得して信者になる。しかし、旧統一教会の場合、どういう宗教なのかを隠したり嘘を用いたりして勧誘をして、よくわからないまま入信して抜けられなくなった人もいます。これは問題だと私は思います。そこに加えて、やはりお金の問題も大きいですね。集団を優先させるために、霊感商法や信者のお金を奪ったり、タダ働きをさせたり仕事を辞めさせたり、学校を辞めさせたりして、そのほかの生きる道を塞いでしまった」
実はそのような指摘について、旧統一教会や現役信者側も「反論」をしています。例えば、24年12月には「反証 櫻井義秀 中西尋子著『統一教会』」(魚谷俊輔著 世界日報社)という795ページにもわたる書籍で「正体を隠した勧誘」についてはかなり誇張されていると主張しています。実際、私自身も取材で多くの信者に入信のきっかけを尋ねてきましたが、「ここは世間に叩かれている旧統一教会だ」と理解をしたうえで、入信をした人たちもたくさんいました。
ただ、彼らや私がいくらそのように訴えたところで、それは「信用に値する」とはなかなか受け取ってもらえません。西田教授はこう言います。
「たとえば、戦時中にもこの戦争は負けるんじゃないかと思っていた日本人は実はたくさんいましたけれど、みんな"こんなことを考えているのは自分だけかも"と不安で黙っていました。そのような感じで誰も声を上げないので、日本社会全体が"みんな戦争を勝つと信じている"と思い込んでしまった。これを"集合的無知現象"と呼ぶんですが、旧統一教会の信者もまさしくこれだと思っているんですよ」
問題解決の糸口は、先入観から敵意を持たずに信者と接すること
私は頷きながらも内心、恐ろしくなっていました。
社会から一度でも「洗脳されている」と疑いをかけられてしまった人は、いくら「私には自分の意志がある」とか「他人には理解できないかもしれないけれど自分なりの信念がある」などと反論をしたところで、その多くは「マインドコントロール」で説明されてしまいます。
そうなると「洗脳されている」と疑いをかけられた人が、社会に認めてもらうのは、自分が信じていることを全否定することしかありません。つまり、江戸時代の隠れキリシタンに対して行った「踏み絵」のようなことをするしかないのです。
そういう遺恨を残すような方法以外で、この問題を解決する術はないものかと考えていると、西田教授がこんなお話をしてくれました。
「窪田さんの記事でも旧統一教会の信者の人たちは"いい人"が多いと書いてありましたが、私からすれば"でしょうね"という感じです。私も別に彼らに敵意を持っているつもりもないので、皆さん普通の人だと思っていますよ。戦時中の日本人の多くは普通のいい人だったのと同じだと思います。ただ、そのような人たちが、本当にご自分の自由意志で選択してそこにいるとみなせるのかというと、そうではないと考えているだけなんです」
これまでメディアで働く人たちやジャーナリストに、私が旧統一教会の取材で見たこと聞いたことを話をすると、「あんな頭のおかしい奴らの話を聞いて本気で信じているの?」「そうやって善人ぶって人からカネを巻き上げるのがあいつらの手口なんだよ」などと、鼻で笑われることほとんどでした。
自分では教団を取材したことも、現役信者から話を聞いたことがないにもかかわらず、メディアで報じられている情報だけで、旧統一教会への憎悪や侮蔑をあらわにする人が非常に多い印象なのです。
しかし、西田教授からはそのようなマイナスな感情は一切伝わってきませんでした。
「あなたはマインドコントロールされています」「いや、私は自分自身の意志で生きています」ーー。そんな互いに一歩も引くことのないこの問題を解決していく第一歩として、まずは西田教授のように「敵意がない」ということが、実は非常に大切なのではないかと思いました。
【第5回 マインドコントロール研究の第一人者に聞く「洗脳ってなんですか?」(後編)に続く】