『月まで三キロ』伊与原 新

●今回の書評担当者●ジュンク堂書店滋賀草津店 山中真理

 一日が終わる。そう思いだしたくもない問題が起こり、自分のふがいなさに自己嫌悪、心が疲弊した夜、この本のページをめくる。何度ページをめくっただろう。

 何度、人にこの本のことを話しただろう。誰にもお薦めの本ありますかと聞かれてもいないのに。
 自分にとっては特別な本、かけがえのない本になった。

 この短編集、どの短編が一番好きかは人によって違う。実際、人に聞いて証明済である。
 自分も一番好きな短編はあるが、どの短編にも心をもっていかれる。
 その中の何作かを紹介する。

 まず表題作「月まで三キロ」。絶望の淵で死を考えていた男を乗せたタクシー運転手が言う。
 この先にね月に1番近い場所があるんですよと。
 月には表と裏があり、太古には表も裏も見えていた。月は1年に三、八センチずつ離れていっている。
 タクシー運転手は自らの乗り越えられない過去の悲しみと月をなぞらえる。
 だんだん地球から離れる月に親と子を、子育てを。
 月に1番近い場所に案内された死を考えていた男に芽生えたものは?
 この短編を読んだ夜、空を見上げると、青く黄色く光る月が自分を照らしていた。
 月を見上げて生きていこうと固く誓った。


「アンモナイトの探し方」では、過去をひきずる元アンモナイトの博物館の館長で化石ハンターと生きづらさをかかえた少年が登場する。
 少年に向けた言葉が深く刻まれていく。
 わかるはわけるだ。正しくわけるというのは人が思うほど簡単ではない。
 わかるための鍵は常にわからないことの中にある。その鍵をみつけるためにはまず、何かわからないかを知らなければならない。
 わかったつもりでもわかっていない。わからないから、積み重ねていく。見つけるために。

 笑われるかもしれないが、自分がエイリアンかもしれないと思えて嬉しかった。一番好きな短編「エイリアンの食堂」で。
 母親を亡くして父親とふたりで食堂を営む子ども、鈴花の前に現れたプレア星人、エイリアン(素粒子物理学の研究員)が鈴花に伝えたかったこと。
 あなたもわたしも一三八億年前の水素でできている。だからわたしたちは宇宙人。
 死んだら、空気に返っていき、わたしのもっている水素はいつか他の生き物に。
 そのあと鈴花のとった行動に自分の感情の沸点が爆発して、とめどなく涙が流れて止まらなかった。

 人生に迷っていたり、生きることに絶望していたり、寂しさに凍えていたり、満たされていない登場人物に少しの光が注がれる。
 宇宙、地学、星、月、化石、科学の煌めきが現れ、広がり、包み込み、絡まるように人間の心情と混ざり合い、絶妙のハーモニーを奏でる。
 科学は冷たくない。科学は体温を有している。科学はいつも身近に存在する。
 私たち人間は科学という大きく温かいものに包まれて生きているとしみじみ思う。
 何か素直になれなかった自分が解き放たれたようだ。
 今日もまた、ページをめくる。心に寄り添い、沁みこんでいく。静かに熱く心が震える。

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ジュンク堂書店滋賀草津店 山中真理
ジュンク堂書店滋賀草津店 山中真理
生まれも育ちも京都市。学生時代は日本史中世を勉強(鎌倉時代に特別な想いが)卒業と同時にジュンク堂書店に拾われる。京都店、京都BAL店を行き来し、現在滋賀草津店に勤務。心を落ちつかせる時には、詩仙堂、広隆寺の仏像を。あらゆるジャンルの本を読みます。推し本に対しては、しつこすぎるほど推していきます。塩田武士さん、早瀬耕さんの小説が好き。