第171回直木賞受賞予想。マライ「なぜ〈成瀬〉シリーズが候補にない?」杉江「イチオシは『地雷グリコ』、予想は『あいにくあんたのためじゃない』だが、前作で候補にして欲しかった」

年に2回の風物詩、チームM&Mによる芥川・直木賞予想対談です。〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mが7月17日に選考会が行われる第171回芥川・直木賞の裏の裏まで読み尽くします。(直木賞選考委員は、浅田次郎、角田光代、京極夏彦、桐野夏生、高村薫、林真理子、三浦しをん、宮部みゆき)。芥川賞編はコチラ

■第171回直木三十五賞候補作
青崎有吾『地雷グリコ』(KADOKAWA)初
麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』(文藝春秋)初
一穂ミチ『ツミデミック』(光文社)3回目
岩井圭也『われは熊楠』(文藝春秋)初
柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』(新潮社)6回目
選考委員
浅田次郎、角田光代、京極夏彦、桐野夏生、高村薫、林真理子、三浦しをん、宮部みゆき

目次
▼青崎有吾『地雷グリコ』先行作への批評的な視点が効いている
▼麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』Z世代当事者から見てリアリティを感じるかどうか
▼一穂ミチ『ツミデミック』日本女性の日常マインドに刺さりやすい設計
▼岩井圭也『われは熊楠』小説がおもしろいのか熊楠がおもしろいのか
▼柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』作者のベスト作を候補にしてもらいたい
▼直木賞候補作総括●〈成瀬〉シリーズをなぜ候補にしないのか

青崎有吾『地雷グリコ』先行作への批評的な視点が効いている

杉江松恋(以下、杉江) 私は一押しが『地雷グリコ』です。受賞予想は『あいにくあんたのためじゃない』。

マライ・メントライン(以下、マライ) 私のイチ押しは無し。『われは熊楠』が惜しかった。受賞予想は、強いて言えば『令和元年の人生ゲーム』ですかねぇという感じ。もっと読者を選ばない内容であれば『地雷グリコ』が良いんですけど。正直、全体的に微妙でした。

杉江 ふむ。では個々に見ていきましょうか。

地雷グリコ
『地雷グリコ』
青崎 有吾 / KADOKAWA / 1,925円(税込)
あらすじ
射守矢真兎は文化祭の会場使用権を賭けて生徒会役員の椚と勝負することになる。選定された種目は相手に罠をかけて後退させることが可能なオリジナルゲーム〈地雷グリコ〉だ。
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マライ 冒頭のポテンシャルが失速せず、最後まで面白さが加速を続けたという面では今回の候補作中でベストです。こういう鬼畜度の高いパズルトリックの小説化は、読む人を選びそうではあるけれど。最初の2篇は『ジョジョの奇妙な冒険』(荒木飛呂彦)第2部とか『DEATH NOTE』(作・大場つぐみ 画・小畑健/共に集英社)みたいだなぁと思っていたのですが「自由律ジャンケン」から一気に面白味が加速する。もともとなぜか『賭博黙示録カイジ』(福本伸行/講談社)の絵柄イメージで読んでいたのだけど、ほんとにカイジみたいな話にシフトしちゃった(笑)。設定的には『賭ケグルイ』(作・河本ほむら 画・尚村透/スクウェア・エニックス)の方が近いですし、作者もできればそっちのビジュアルに寄せたかったに違いないはずだけど、なぜかカイジだったんですね、私は。ちなみに、最初の「地雷グリコ」に登場する変な名前の伝統闘技が、将来確実に発生する、ある強大な敵との戦いのための戦士ピックアップが隠された設立趣旨だったりするへんてこなリクルートシステムが、「男塾システムっぽくていいよね」と夫が申しておりました(笑)。

杉江 『魁! 男塾』(宮下あきら/集英社)の闘技場で死んじゃうと次から仲間になるという無茶展開ですか(笑)。『賭ケグルイ』要素もありますけど、むしろ以前から青崎さんがファンであることを表明している『嘘喰い』(迫稔雄/集英社) ですね。ついにその要素を前面に押し出してという。オリジナルルールのゲームをやるあたりはたしかに『カイジ』でもあり、同じ福本の『アカギ~闇に降り立った天才~』(竹書房)の鷲津麻雀編です。

マライ マンガ・アニメに親しんでる人からするとイマイチ新味に欠けるかもしれない気がしますが、そのへんいかがでしょうか?

杉江 よくわかります。ただ、この作品はいろいろな先行作への批評的な視点が効いているとも思うんです。たとえば、敵のインフレを起こさないこと。ラスボスは強いけど、世界征服的な野望を持っているわけじゃない。そういう意味では青崎さんの「ぼくのかんがえたさいきょうげーむしょうせつ」なんだな、と。深いマンガファンが「こんなの20年前からやっていたよ。小説は遅れてるよね」と言うだろうとも思います。それもコミで、今回は推したいわけです。いいじゃん、遅れてても。

マライ そういう開き直りが自覚的に存在するなら、私もアリだと思います。たとえば海外を舞台にした日本人巻き込まれ型アクションサスペンス系小説について、実は私は基本的に広江礼威の傑作コミック『ブラック・ラグーン』(小学館)に匹敵するかどうか、で評価してきたので、思うところはいろいろあります。

杉江 正直言うと、直木賞には上がらないかな、という気持ちもありました。理由はマライさんがおっしゃるとおりです。でも、予選委員も無視できなかったんでしょうね。そういう意味では強すぎる候補作です。これを推さないと仕方ないよ、と京極夏彦さんあたりが勧めてくれる可能性はあるかなと。マライさんにお聴きしたかったんですけど、この話、ゲームのルールで理解できないところありましたか。

マライ 微妙にあったような気はしますが、理解が完全でなくてもドライヴ感とおもしろさが上回ったのでノープロブレムです。

杉江 日本推理作家協会賞の選評(第77回日本推理作家協会賞長編および連作短編集部門受賞)を読んでいたら、「ルールがよくわからなくて入り込めなかった」と意見があったんで、あんなにわかりやすく書かれているのに、と驚いたんです。でも、もしかすると一定の年齢以上とか、パズル的解説が肌に合わない人はいると思うのです。直木賞はちょっとヤバいかも、と思うのはそのへんが理由ですね。

マライ 私が気にしたのもまさにそこ。雰囲気はすごくいいんですよね。でも気になるというか。

杉江 あんなにわかりやすいのになあ。この作品に反対票を投じる選考委員には、現在の大衆小説をもっと広く読みましょうよ、と私は言いたいです。滅法おもしろいことは保証しますので、まだ手に取ってない方は、結果は別にぜひ試していただきたい。

麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』Z世代当事者から見てリアリティを感じるかどうか

令和元年の人生ゲーム
『令和元年の人生ゲーム』
麻布競馬場 / 文藝春秋 / 1,650円(税込)
あらすじ
慶應義塾大学1年生の〈僕〉は学生の起業プランを審査するコンテストの主催サークルに入っている。冷笑的な態度で熱い議論に水を差す先輩の沼田を疎ましく思っていたのだが。
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マライ 今回の台風の目でしょうか。Z世代の内面に真摯にアプローチした作品、という面が話題化しているようですが、個人的には、2010年代半ば以降の「勝ち組願望」「勝ち組っぽさ」「真の勝ち組」とは何なのか、を追究した試みとして楽しめました。特に、全編にわたり登場する沼田という、メフィストフェレスとサリエリを足して2で割ったようなキャラの存在感と心理触媒効果がなかなかよろしかったなと。Z世代へのアプローチについては確かによく踏み込んでいるとは思うけど、第3章の、高級学生シェアハウスを舞台にした話のシロクマ着ぐるみエピソードなんかは、いささか戯画的というか『稲中卓球部』っぽい印象があります。また、「Z世代≒紅衛兵」みたいな色付けに反発を感じる人がいそうな気もします。

杉江 『行け!稲中卓球部』(古谷実)ですか(笑)。あれも部活内の同調圧力の話ですからね。私は、こんな筆名の人が直木賞候補になる時代が来たか、としみじみしました。私が感心したのは、渋谷区を中心とした事物の出し方ですね。基本的に固有名詞は実在のものが中心になっていて、現実を写し取っている。シェアハウスが池尻大橋にあるとか、全部納得のいく配置です。あそこ、旧ジャパンプロレスの合宿所があったところで、都心から少し外れた場所に提供されるマンション、というイメージにぴったりなんです。

マライ なるほど、器から生じるリアリズムですか。

杉江 そう。あと、起業に失敗した慶應義塾大学生が他人に上から物を申すためにビジネスコンテストで頑張る第1話とか、アイタタタと思うくらいリアリティがありました。慶應はああいう学生起業家がわさわさ出てくるところなんですよね。そのシンボルが竹中平蔵氏なわけですが。

マライ そのへんは内情を知らない人にも匂い立つ感が伝わってきて、大変よろしうございました。

杉江 いわゆる意識高い系の人を書いた小説で、揶揄するのではなく、そちらの内面に入り込んで書いたものは珍しいですよね。

マライ 今はたとえばナチものコンテンツでも「加害者側の内面」がフォーカスされる時代ですからね。同感です。

杉江 麻布競馬場さん、受賞したらマツコ・デラックスにいじられるのもアリかな。「Qさま!!」(テレビ朝日)に慶應義塾大学卒の高学歴作家って言って出されたりとか。

マライ それは微妙にいじめになるかもしれませんが、アリでしょう。私がZ世代と接した経験からいえば、彼らは物心ついたときから情報過多な環境で育ち、そんな状況にどう対峙するかというのが至上命題なわけです。大量の情報を吸収しながら価値体系を内面で再構築できるかどうかで差が生じる。そこを勝負どころとして野望や諦念が渦巻くのが彼らの特徴で、本作がそういう境地にリーチできているかどうか、特に2000年以降生まれのZ世代当事者から見てリアリティを感じるかどうかに、個人的には興味あります。

杉江 そこは当該世代に聞いてみないとわからないところですね。そういう意味でも読者層を広げるいい機会になりそうな気がします。

マライ 同感です。あと本作、「キラキラ感」への疑念を軸とした内省描写の冴えが印象的ですね。一般的にキラキラ感は勝ち組的イメージと親和性が高いんですが、本作では負け組が自分を粉飾するための材料と見なされたりします。背景でずっと進行していた日本社会の地盤沈下と合わせて考えると納得感が深い。そして作品内で描かれる「事業」が、おしなべて虚実相半ばする怪しいリアリティに包まれているのが絶品です。私のZ世代友人はそもそもキラキラ感を最初から相手にしてない人が多くて、出来ればそのへんまで踏み込んで社会心理を射抜いてほしかったとも思います。前半の方が後半よりも社会の不可思議さのリアリティはよく描けている気がしますが、そういう不満を心象描写の味わいとかが上回っている印象があって、良作だと思います。ひとつモヤるのが、沼田の解釈です。彼は小説の結末において、成長したのか、退化したのか、順応したのか。

杉江 沼田は舞台の背景に置かれることが徹底されたキャラクターなので、彼の書かれ方にストレスを感じる人はいるかもしれませんね。読者に委ねる形で書かれているので。私は、あの終わり方はよかったと思っています。沼田無双で終わってしまうと、アンチヒーロー小説っぽくなってしまったでしょうから。小説のリアリティを担保しました。

マライ 予定調和破壊の妙というか。

杉江 さすがに「麻布競馬場という筆名はふざけている」みたいな意見を言う選考委員はいないでしょうし、公正な審査を望みたいですね。どう評価されるか興味があります。

マライ 全く同感です。ネット文章センス作家の真打が出た感がありますから。

 

一穂ミチ『ツミデミック』日本女性の日常マインドに刺さりやすい設計

ツミデミック
『ツミデミック』
一穂ミチ / 光文社 / 1,870円(税込)
あらすじ
調理師の恭一はパンデミックが影響して失業中だ。ある日息子の隼が近所の偏屈な老人と知り合った。老人に取り入って金を引き出そうとする──「特別縁故者」他全六編。
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マライ 最初に候補になった(第165回)『スモールワールズ』(講談社)で印象的だった、ネット民的に濃厚な皮膚感覚が、2回目(第168回)の『光のとこにいてね』(文藝春秋)を経てさらに薄れ、今回はオーソドックスな文芸にイマドキのガジェットをまぶした作品という印象が強い。パンデミックを軸とした罪の意識を描く連作です。ただ、パンデミックを絡めた効果については評価が分かれそう。

杉江 新型コロナの最盛期にはこういう作品がいっぱい出ました。本書も刊行があと半年早かったら、旬に感じられたと思うんですよ。でもそれは時事ネタに寄りすぎた戦略なので、小説としては危険な判断になりますが。

マライ 個人的にはパンデミック云々を措いて、小説としての弱さが気になります。各話の基本構造はわりと明確です。女性の日常的な不満要素がベースにあって、そこから一歩あえて踏み出すアクションを主人公が行った結果、ドツボにハマる。で結局、読者には「自分は実際には踏み出さないで良かった」「でも脳内冒険は出来た」という実感が残るのです。これは極めて日本女性の日常マインドに刺さりやすい設計で、とてもよく出来ています。ただ率直なところ、こういう呪詛すれすれの心情「寄り添い」小説はちょっと食傷気味です。

杉江 マライさんがおっしゃるように、各話はかなりオーソドックスなプロットを使っていて、日常に回帰する話なんですよね。あれ、こんなに保守的な作家だったっけ、という印象でした。ミステリーとしては1990年代に乃南アサや新津きよみなどの、女性作家が台頭したときに書かれた作品を彷彿とさせるものがあります。新しくはない。

マライ たとえば冒頭の「違う羽の鳥」では「#家出少女」というハッシュタグがキーになるのですが、世間的には「頂き女子」というパワーワードが出現して、フィクションの優越性が思いきり上書きされています。現実のほうが進んでいる。また、印象的なキャラクターが見当たらない点も気になりました。しかしこれは、登場キャラや文体のカリスマ性で物語を引っ張る作品を好む私の偏った見解かもしれません。もし、作中で描かれる罪の自意識とそれをめぐる共感性こそ重要で、特定の読者層に深く刺さるのだ! ということであれば、余計な口出しということになります。

杉江 ツミというキーワードでまとめられていますが、犯罪が主題の作品ではないですよね。犯罪は契機にすぎなくて、日常からはみ出る冒険を描くことが主です。それが多くの人の共感を集めるなら、いいことだと思います。こういうものが直木賞なんだ、という選考委員も多いはずなんです。たとえば林真理子さんは、評価されるんじゃないかな。前作、前々作を高く評価された方がこれをどう読むか、ということに着目すると、選考委員が直木賞をどう考えているのかがわかるような気がします。

マライ なるほど。待て、選評! という感じでしょうか。選考委員側の「文脈」が見えるというのは確かにポイントですね。

 

岩井圭也『われは熊楠』小説がおもしろいのか熊楠がおもしろいのか

われは熊楠
『われは熊楠』
岩井 圭也 / 文藝春秋 / 2,200円(税込)
あらすじ
明治の思想界に輝く巨人・南方熊楠。彼は幼少時から常時頭の中で聞こえる声に悩まされていた。世界のすべてを知り尽くしたいという願望がら学者として立つことを決意する。
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マライ 『新世紀エヴァンゲリオン』に出てきたNERV本部のMAGIシステム(微妙に異なる属性を持つ三基のスーパーコンピュータの合議により高度な意思決定を行う)が個人の脳に内在し、MAGIシステムと異なり意思決定のルールが明確でないため宿主に強大なストレスをもたらす、という構造で南方熊楠の「超知力」と「獣的暴走」を一気に説明づけてしまう設定が凄いです。素晴らしい、これなら既存の尺度に収まりきらない南方熊楠像を画期的な形で描き出せる! ……と思いきや、読み進むにつれて割と通常の観念レベルの物語に収斂していったのが個人的には残念です。

杉江 熊楠はMAGIシステム! それは気づかなかった(笑)。南方熊楠を書いた先行作には傑作がいっぱいあるんですよね。漫画にも水木しげる『猫楠』(KADOKAWA)がありますが、私は岸大武郎『てんぎゃん』(集英社)が好きです。なんと『少年ジャンプ』連載。題材がいいから次々に挑戦する人が出てくる。小説がおもしろいのか熊楠がおもしろいのかといえば、たぶん後者なんですよね。この作品が南方熊楠像に新たなものを付け加えたかというと、ちょっと疑問があります。男色のことをかなり書いているとか、踏み込んでいる部分はありますが。

マライ ああ、その「小説がおもしろいのか熊楠がおもしろいのかといえば、たぶん後者」これにすべてが凝縮されている気がします。南方熊楠の知力の真の凄さは、専門分化を前提とした科学の時代に、ライプニッツ以来ともいえる「森羅万象の統一体系化」を本気でやりきろうとしていた点だと思うんです。そのコンセプトも、本作では「モノしか見ない西洋vs.ココロも見る東洋」という図式で強制終了させられている。結果として後半は、ほとんど熊楠の自己救済の話になっちゃってるんですよ。『エヴァンゲリオン』が新劇場版で「エディプス・コンプレックスからの解放」に強めシフトしてしまったのを思い出します。あれも個人的には「セントラルドグマの奥にあった存在はいったい何だったのか」を深掘ってほしかったのに。

杉江 後半はほとんど自己救済というのは本当にそうですね。熊楠は皇太子、後の昭和天皇に会って進講したことで、かつての天狗が人間になります。明治人としての満足を得るんですね。あれは矮小化とも見えるわけで、熊楠のそういう残念さに踏み込まないのか、と思いました。人間宣言を後にする昭和天皇に会った熊楠が人間に戻るというのは構造的におもしろいと思うんですが。

マライ そのご進講のあたりとか「凄さ」と「残念さ」の対比をどう考えるかが読者に委ねられているというか、色付けを放棄してしまった感があります。

杉江 熊楠の弟に「兄やんは天皇陛下に進講するために学者になったんか」と言わせればよかったのになあ。

マライ そうですよねぇ、物議をかもしてでも。しかし最初の10ページは本当にすごいんですよ。傑作になると思ったのに。

杉江 博物学的天才は難しいですね。なんでも知っている、知りたいという欲求の人物って、論理的に構築しづらくて曼荼羅的に網羅した書き方になる。すごさが物量作戦になるんですよ。ただ、私は芥川賞編で言ったように自然描写が大好きなので、熊楠が那智に行く章は非常に楽しめました。あれも異界小説ですね。山から下りて人間と交わることで熊楠は普通になっちゃう。そこについて踏み込むことができていたらなあ、と思うんです。

マライ 著者が極め系のフィールドワーク人間だったら、ワンチャン突破できたかもしれない的な。

杉江 それはあるかも。岩井さんは多作で、どれも水準以上なんですけど、一つの題材に偏執する書き手という印象はないですね。熊楠は、異常執着の人が書くとはまる題材なのかもしれないです。でも、善戦したと思いますよ。

マライ そうですね。もうちょっと思い切った解釈が必要だったとは思いますが。

柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』作者のベスト作を候補にしてもらいたい

あいにくあんたのためじゃない
『あいにくあんたのためじゃない』
柚木 麻子 / 新潮社 / 1,760円(税込)
あらすじ
ラーメン評論家の佐橋は失業の危機に瀕していた。超人気店から出入り禁止を言い渡されのだ。詫びを入れ、入店はかなうのだが——「めんや評論家 おことわり」他の諷刺小説群。
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マライ コンセプトを端的に紹介するのが難しい短篇集だと感じました。突き落とされた苦境からギリギリ立ち上がろうとする者どもの物語、なのかと思ったけど微妙に違う作品もある。巻頭の「めんや 評論家おことわり」は一種のハードボイルドとして鮮烈で、そういう路線で行くのかと思ったら後はそうでもない。帯には「最高最強のエンパワーメント小説!」と書いてある。そこを癒し系と勘違いされない限りでは嘘にはならないかもです。現代的な怨嗟を昇華させる系の共感小説群という感じでしょうか。

杉江 柚木さんは、これまではほぼ長篇が候補で、直木賞では短篇集は顧みられてきませんでした。文藝春秋から出た『ついでにジェントルメン』は素晴らしかったのに。

マライ 正直今回の作品は、作者のベストではない印象があります。

杉江 これ、自分の地位にふんぞりかえっているオトコ様が、意識すらしていない相手に蹴落とされて傲慢さに気づく、というスタイルの小説集ですよね。『ついでにジェントルメン』は、いつも男が中心にいられると思ったら大間違いだぞ、という内容でした。『あいにくあんたのためじゃない』のあんた=オトコ様なんですよね。

マライ そうです。そしてとにかく、令和にもなって根本的によくなっていない現代社会に対する呆れ感がすごくにじみ出ています。杉江さんがいま挙げた、いつまでも女性の女性っぽさにこだわるラーメン評論家とか、外国人で賑わっていて、若者たちがどんどん留学する、でも海外移住はなぜか一切しないで戻ってくる街がやっぱり廃れていくとか。この国の舵取りを行なっている層への不信感は根強いものの、「日本人はやはり日本の味が一番よね」と、国の外にも漠然とした不安感があるので、クソっぽい世の中でせめて小さなバブルでも享受して自分らしく生きていきたい! というメッセージが強く伝わりました。

杉江 言われて気づきましたが、たしかにかなり保守的な人生観で書かれていますね。

マライ 問題やストレスを突破すると見せかけて、実際には『ツミデミック』と同種の心情「寄り添い」系であるような印象を受けます。

杉江 帯の“エンパワーメント小説”“エナドリ短篇集”に私はピンとこなかったのですが、読者を「あなたはそれでいいんだよ」と元気づけることが目的ならわかる気がします。

マライ そういうことがよしとされる風潮が、ここ数年続いてますよね。

杉江 『ついでにジェントルメン』もそういうところのある短篇集だったのですが「渚ホテルで会いましょう」とか、突き抜けた短篇があったので、印象に残っています。あれ、直木賞候補には無理だったでしょうけど。『失楽園』(渡辺淳一/講談社)を徹底的にバカにした小説でしたから。

マライ 思い切った突き抜け感がないと、呪詛小説になってしまいますね。でも「商店街マダムショップは何故潰れないのか?」は文化考察の側面から推せます。あれ、男女双方の観点から描いたら面白そうだなと思いました。

杉江 収録作の中で「マダムショップ」はちょっと異質ですね。妖怪小説っぽい感じもある。異界小説ですね。あれは柚月さんの素なんじゃないかな。おもしろいと思ったことがそのまま書かれている感じ。私も好きです。

マライ 気づきの観点って重要だと思うんです。

杉江 よくわかります。「めんや」とか「スター誕生」は、そこまで斬新な素材ではないですが、味付けで補っている感じがします。「マダムショップ」はそれ以前に素材選びで成功していますね。

マライ 言っても仕方ないですけど、作者のベスト作を候補にしてもらいたいですね。

杉江 直木賞はだいたい遅れるんですよね。京極夏彦の〈巷説百物語〉シリーズは第3作の『後巷説百物語』(KADOKAWA)でようやく候補になって受賞したし、宮部みゆきも『火車』(新潮社)に授賞しなかった。何年か遅れて、じゃあそろそろ、と授賞するんですよね、この賞は。感性が鈍い。『ついでにジェントルメン』を候補にしそこなった直木賞が、今回はなんとか『あいにく』を挙げられたわけで、罪滅ぼしの意味でも今回は授賞するんじゃないかな。

直木賞候補作総括●〈成瀬〉シリーズをなぜ候補にしないのか

マライ 個人的に最近の小説では、宮島未奈の〈成瀬〉シリーズ(『成瀬は天下を取りにいく』『成瀬は信じた道をいく』新潮社)に少なからぬ衝撃を受けていて、なぜ候補にならないんだろう? と思うんです。あれって、地盤沈下している日本社会の空気感の中でいかにポジティブに生きるか、という話にも読めるのがすっっごくいいです。読者から絶大に支持されているということは、ここしばらく続いていた「生きづらさ」「怨念」「寄り添い」の三位一体の定番パターンからの脱却が求められているサインのようにも感じられるんですよ。個人的には今回、もし候補作に『成瀬は信じた道をいく』が入っていたら断然一押しでした。

杉江 あ、そうそう。『成瀬は天下を取りにいく』からずっと思っていますが、なんで候補にしないのか。あまりに売れているから妬んでいるのか。本屋大賞を獲ったから外したのか。私もあれがあったら間違いなくイチ押しにしてましたよ。

マライ でしょう! これは10万回言いたい。

杉江 予選委員には反省を促したいですね。『成瀬は信じた道をいく』で授賞しておかなかったことを、直木賞は20年、30年言われ続けます。『火車』の失敗みたいに。

マライ 予選担当の皆様の周囲にも、きっといろいろ事情やドラマがあるんでしょう。興味深い。覆面インタビューとかやってみたいですね。断られるだろうけど。あるいは、「文春オンライン」にすっぱ抜いてもらうとか!

杉江 それはダメでしょ!(笑)

芥川賞予想対談も!

第169回から「WEB本の雑誌」で始まった芥川・直木賞予想対談。〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mが7月17日に選考会が行われる第171回芥川・直木賞を語り倒しますよ。水準の高い戦いとなりそうな芥川賞候補作について熱く挑んでます。

第171回芥川賞候補作を読んで徹底対談はコチラ

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