インタビュー
映画人の仕事

第3回 予告篇ディレクター/小松敏和さん(バカ・ザ・バッカ)【前編】

予告篇ディレクター 小松敏和さんに聞く、
映画と仕事【前編】

 映画業界で活躍するすごい映画人に、「仕事としての映画」について語っていただくコーナー。第3回は、予告篇制作会社「バカ・ザ・バッカ」の小松敏和さんを訪ねました。『死霊のはらわた』や『アメリ』の予告篇で業界の支持を集め、全盛期は恐らく日本で最も多忙な予告篇ディレクターであり、現在は恐らく日本最高齢の予告篇ディレクター。前編では、予告篇界の重鎮に仕事に就いたいきさつを聞いてみた!

年間250本もの映画を観ていた映画狂
 御年60歳の小松さんは、予告篇ひと筋35年。青春時代はやっぱり映画狂でした。受験勉強よりも映画に夢中になっていた浪人時代は、まさに小松さんの財産ともいえる時間。

「年間250本くらい観たかな。ロードショーは高くて行けなかったけど、昔は3本立て、オールナイトで5本立てとかありましたから。続けて10本くらい観ることができちゃったんです。」

 なぜそんなに異常なほど映画を観ていたんですか?

「単純に面白いから、なんですけどね。両親は年間何百本というレベルではなかったけど、映画が好きで子どもの頃はよく映画館に連れて行ってくれました。その流れがあって、映画を観るのが自然なことになっていたんです。それに高校時代は友達と休み時間に映画の話をするのが楽しくてね。でもそれは、今で言えば若い子がAKBに夢中になるのと同じようなものじゃないかな。そんなに特殊なことだとは思っていませんでした」

パラグアイ生活で思い知った映画愛
 小松さんが映画愛を再認識したのは、なぜか遠く離れたパラグアイ。

「映画の仕事に憧れつつ、無謀にも天体物理学者を目指して、物理学科にぎりぎり補欠で滑り込んだのですが、そちらの才能がまったくないことには気づいていたので、現実逃避で映画ばかり観ていました。そんな心の隙に、というのか、ひょんなキッカケで、パラグアイに移り住む決意をしたのです。まったく一貫性のない生き方ですね(笑)。結果的には騙されてしまったのですが、両親まで道連れにして親子3人で、有志の日本人による共同生活が行われているという、パラグアイの牧場に行きました。しかしそこは、外部と隔絶されて無報酬で働く過酷な世界。1年間暮らしましたが、こんなところで一生を終えたくない。でも帰国はさせてくれないので、自力で脱出するしかないんです。両親と一緒に脱出は無理なので、独りで夜中に脱走しました。その少し前に脱走者が出た時はすぐに追跡されたので、僕は首都の空港に向かったように見せかけて反対方向に向かい、徒歩とバスと船を乗り継いで、国境を越えてアルゼンチンに入って。結局1ヶ月近くかかってやっと日本にたどり着きました」

 毎日が命がけの心境で、「もし生きて帰れたら、映画の仕事に就こうと心に決めた」という小松さん。漠然と憧れていた"映画の仕事"に、ついにスイッチが入りました。

「パラグアイでの生活で一番つらかったのは、なんと映画を観られないことだったんです。そんななかで、僕は映画が好きなんだ!って思ったんです。好きな人といつも会っているとなんとも思わないのに、会えなくなると......というのと同じですね。パラグアイ行きは、僕の人生最大の失敗ですが、逆にそれがなければ映画の仕事には就いていなかったでしょうね」

道を開くには、鈍感力も必要!?
 帰国すると、日本に残っていた姉と協力して外務省や弁護士に相談したり、パラグアイに残っている仲間と密かに連絡をとったりして、両親を帰国させることに成功。さあいよいよ映画の仕事をするぞ!と固い決意はしたものの、当てもコネもなかったのだそうです。

「とりあえず周りの人に映画の仕事をやりたい、と、言って回りながら、バイトで暮らしていました。するとある時、ものすごく遠いコネで、映画関係のテレビ番組を作っている制作会社を紹介してもらって。でもそこの社長には"映画の仕事なんかやらない方がいいよ"って言われまして......。すでに映画産業は下火になっていたんですね。まあ遠回しに断られたんだと思うけど、鈍感だからぜんぜん気がつかなくてね。しつこかったからかな、仕方なくバイトで雇ってくれたんです」

 言い続けること、しつこいこと、鈍感であること。それが道を切り開く秘訣なのかもしれません。というわけで、めでたく映画の道へと足を踏み入れた小松さんですが......。

「その会社のメインはテレビ番組を作る仕事。映画絡みの番組が多かったから、その繋がりで映画の予告篇も作っていました。で、番組ADや予告篇制作のアシスタントをやらせてもらうなかで、番組制作って面白そうだなって思い始めたんです。活動的なテレビのディレクターと対照的に、予告篇を作る仕事って、部屋に籠もってフィルムをずっと編集して......。要するに地味なんです。しかも徹夜とか多いし」

 ところがある時、予告篇の担当者が退職したのをきっかけに、問答無用で予告篇制作部署に回されることに。

「嫌だとか言える立場ではなかったですからね。その頃は予告篇を作る人が少なかったので、ものすごく忙しかったですね。アシスタントを入れてもすぐ辞めちゃうし。きついし面白くないんだと思いますね(笑)。なんせ地味ですから。そういうなかで自分が続けられたのは、我慢強かったからかな」

今ならブラック確定!? 会社に住んで24時間臨戦態勢
「その頃は、本当に24時間仕事をしていましたね。着替えとか布団とか持ち込んで、会社に泊まり込んでいました。土曜の夜にアパートに帰って、日曜の朝、洗濯して掃除して、午後には出社して、また一週間泊まり込み。その会社にいたのは9年間なんだけど、後半の半分ぐらいはそういう生活で。でもお金も安いしね、不満が高まってきて。あと一番大きかったのは社長に予告篇を続ける考えがなかったことかな。テレビの方がメインだったからね。僕の方はやっているうちに愛着が出てきて、予告篇でやっていきたいという思いが強くなっていたから」

IMG_6288.jpg

使われる機会こそ減ったものの、まだまだ現役のフィルム編集機(スタインベック)

 そんな小松さんに訪れた転機。それが、小松さんが現在も籍を置く予告篇制作会社「バカ・ザ・バッカ」の現社長、池ノ辺直子さんとの出会いでした。

「当時、池ノ辺はフリーの予告篇ディレクターで、取引先の映画会社でよく顔を合わせていたんです。で、彼女が予告篇制作の会社を作る時に"一緒にやらないか"と声をかけてもらって、池ノ辺が社長、僕が副社長という形で、バカ・ザ・バッカの前身の池ノ辺事務所を設立しました。おかげさまで以前の会社でやっていた仕事も、ほとんどそのまま引き継ぐことになって。忙しさは変わらなかったんだけど、予告篇制作の会社でやれてるっていうのが、気持ち的にはすごく良かった。その流れで今に至っています」

後編では、予告篇制作の歴史やその仕事の中身をうかがっています。お楽しみに!

(取材・文/根本美保子)

« 前の記事「映画人の仕事」記事一覧次の記事 »

小松敏和(こまつ・としかず)

1952年、静岡県生まれ。株式会社「バカ・ザ・バッカ」専務取締役。予告篇ディレクター歴35年で、洋画・邦画を含め1000本を超える予告篇を手がける。主な予告篇作品に『死霊のはらわた』、『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』、『エルム街の悪夢』、『アメリ』、『男はつらいよ』シリーズ、『おくりびと』、『冷たい熱帯魚』などのほか、「東京国際ファンタスティック映画祭」「したまちコメディ映画祭in台東」など映画祭の予告篇も手がける。

BOOKSTAND

BOOK STANDプレミアム