将棋に魅了された人々を描く連作短編集〜佐川光晴『駒音高く』

文=松井ゆかり

 がさつさゆえ、似た名前の人を混同しがちである。例えば、子どもの頃によくテレビで見かけた有島一郎(俳優)と国語の授業で習った有島武郎(作家)を同一人物と思い込み、「小説も書くなんて多芸な役者だなあ」と思ったりしていた。『駒音高く』の著者・佐川光晴氏のことも、やはり作家の井上光晴とずっと勘違いしていて、「エキセントリックそうだなあ」とやや敬遠きみだった(著者と井上光晴のことは、それぞれ佐川一政と金子光晴ともごっちゃにしていて、もう何が何だかという状態。佐川先生、申し訳ありません)。

 そんなわけで佐川光晴さんは、全身小説家でもカニバリストでもなく(著書に『牛を屠る』とかあるのでよけいビビってましたが)、何ら恐れることなくお読みいただける作家だ。本書は将棋に魅了された7人の主人公が登場する連作短編集。年齢も棋力もさまざまな彼らはしかし、将棋を愛する気持ちを持っていることは共通している。特に印象に残った作品は、第一話の「大阪のわたし」と第三話の「それでも、将棋が好きだ」。

 「大阪のわたし」の主人公は、将棋会館の清掃員をしている67歳の奥山チカ。子どもをもうけることなく夫を亡くし、その後母の介護に追われて、41になって初めて働きに出た。特別に知能指数の高い子どもとしてテレビにも出たことのある兄は左官職人の父を疎んじていたが、チカは大好きだった。父が将棋の手ほどきをしてくれたおかげで、チカも棒銀戦法で指すことができる。数日後には大阪への旅行を計画しており、関西将棋会館を訪れるのも楽しみのひとつだった。いよいよ大阪に赴き、その足で関西将棋会館に向かって館内の清掃状態や子どもたちの様子などを眺めていたチカは、ひょんなことから自分も対局することになり...。

 「それでも、将棋が好きだ」は、奨励会入りを目指している中学1年生の小倉祐也が主人公。小学3年生の4月に将棋を覚えた祐也はめきめき実力をつけ、小学5年生の10月に研修会入りを果たす。研修会はクラス分けがされており、そこで昇級を繰り返して奨励会試験に合格したら奨励会に入会でき、そこから三段リーグを突破すると四段昇段=プロ入りとなるのだ。将棋の世界においては奨励会入会時や三段リーグ終了時に年齢制限があり、何歳までに条件をクリアできるかということが重要になってくる。祐也も研修会入りまでは順調だったが、その後自分の棋力が伸びていないという自覚もあり、先々月はとうとう降級という結果に。悪循環の中で黒星を重ねる祐也は、果たして立ち直れるのか...?

 藤井聡太七段という大スターの登場以来、注目を集め続ける将棋界であるが、その陰で棋士になれずに奨励会や研修会を去っていった若者たちがどれほどいたことか。チカのように初めから趣味として楽しもうとする者は、比較的心穏やかに将棋と向き合うことも可能だろう。しかしながら、祐也のようにどんなに苦しい道のりであっても将棋の世界に身を置いて生きていこうとする者もいるわけで、棋士を目指す彼らにしか見られないような高みというものもあるに違いない。将棋についてひとつ言えるとしたら、その人が望めば生涯を通じてつきあっていけるものだということではないか。チカも祐也も、どちらのやり方もアリなのだ。私は40年以上にわたって駒の動かし方も知らないまま将棋を見てきたけれども(余談になるが、藤井七段のおかげで見る将スキルについては近年かなりアップしたと思われる)、ここへ来て詰将棋が気になり始めた。7人の主人公たちの中には夢が叶った者もそうでない者もいるが、全員が一生将棋を愛し続けていくのだろうなと思う。であれば、夢破れた者がつらさのまっただ中にいたとしても、いつか必ず乗り越えられると思いたい。

 本書でもうひとつ心を打つのは、家族小説としての側面だ。どの短編にも、主人公への思いやりと理解に満ちた家族たちが登場する。彼らは将棋に詳しかったり詳しくなかったりいろいろだが、みな主人公たちを大切に思っているのは同様だ。そして主人公たちが棋士であろうとなかろうと、家族のなにげない優しさや温かさに支えられているというところもやっぱり同じなのだ。

(松井ゆかり)

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