第二回 掛川-天竜二俣-浜松

  • 子連れ狼 第1巻 愛蔵版 (キングシリーズ)
  • 『子連れ狼 第1巻 愛蔵版 (キングシリーズ)』
    小池 一夫
    小池書院
    700円(税込)
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  • 私の文学放浪 (講談社文芸文庫ワイド)
  • 『私の文学放浪 (講談社文芸文庫ワイド)』
    吉行 淳之介
    講談社
    1,404円(税込)
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  • 吉行淳之介ベスト・エッセイ (ちくま文庫)
  • 『吉行淳之介ベスト・エッセイ (ちくま文庫)』
    吉行 淳之介
    筑摩書房
    1,026円(税込)
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  • ニッポン周遊記  ―町の見つけ方・歩き方・つくり方
  • 『ニッポン周遊記 ―町の見つけ方・歩き方・つくり方』
    池内紀
    青土社
    2,592円(税込)
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  • よろずの候(1) (ウィングス・コミックス)
  • 『よろずの候(1) (ウィングス・コミックス)』
    まるかわ
    新書館
    680円(税込)
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 最近、なるべく酔っぱらいすぎないようにしている。酒が進むと街道の話ばかりしてしまうからだ。
 出身地を聞いたら、即、街道の話。プロ野球の話をしていてもそうだ。
 先日、飲み屋で千葉ロッテのファンに会ったとき、「ファームは埼玉の浦和ですね。浦和は中山道の宿場町で、東京ヤクルトも二軍は戸田で中山道沿いだから、中山道ダービー、盛り上げたいよね。浦和宿といえば......(以下略)」と延々と話し続けて呆れた顔をされてしまった(わたしはヤクルトのファン)。昔、ロッテの二軍球場は青梅にあった。
 すこし前に「プロ野球の球団を十六球団に増やしたらどうか」という案が出たことがあった。北陸、四国などの地域が候補地として浮上したが、わたしは中山道のどこかの宿場町に作るべきだと本気でおもっている。中山道のどの宿場町に球団を作ればいいのか。その話はいずれまた。

 それはさておき――。

 愛知県、渥美半島に暮らしていた杉浦明平の『東海道五十三次抄』(オリジン出版センター、一九九四年)の「東海道の名残り」に次のような記述がある。

《幕府は、役人が上方や九州方面に出張する際往路は東海道、帰りは中山道を通るようきめていた》

 東海道ばかり通っていると中山道の宿場がさびれてしまう。それを防ぐのが目的だ。江戸幕府には頭のいい人がいたようだ。
 この江戸の発想に地方の活性化のヒントがあるかもしれない。
 江戸時代の人は東海道(日本橋~三条大橋)を二、三週間かけて歩いた。延々と歩いてきた道をまた折り返すのではなく、多少遠回りになっても中山道を通りたかったのだとおもう。別の道を通れば、ちがう景色を見ることができる。
 アメリカには「スローマネー」と呼ばれる地元の小規模食料業者に投資する運動があるが、江戸の街道文化は人々が歩くことによって町の小さな産業を支えていた。

 十月はじめ、JRの「秋の乗り放題パス」を買った。JR全線普通列車に三日間乗り放題のキップである。期間は十月六日(土)から十月二十一日(日)までのうち連続する三日。値段は七千七百十円。一日あたり二千五百七十円で乗り放題という「おトク」なキップだ。
 乗り放題パスで郷里の三重県鈴鹿市に帰省することにした。
 もちろん行きは東海道、帰りは中山道を通るつもりだ。どのルートで行こう。どこに泊ろう。
 とりあえず、街道歩きに備えてオイルコンパス、LEDのヘッドライト、小型の単眼鏡を買った(全部で三千円くらい)。
 まずは東海道五十三次二十六番目の宿場町――静岡県の掛川宿に寄ってみることにした。なぜ掛川なのかというと、そこに吉行淳之介文学館があるからだ。行こう行こうとおもいながら、なかなか足を運べずにいた(今年、吉行淳之介のエッセイのアンソロジーを編集しているにもかかわらず......)。
 人間にはひとつの理由(条件)では動けなくても、ふたつになると、行動に移せるという性質がある。「街道趣味」は文学にかぎらず、行きたいとおもいつつ、二の足を踏んでいた場所を訪ねるきっかけになる。

 十月七日(日)、JR中央線の高円寺から午前四時四十三分の電車で東京駅へ。そこからひたすら在来線で掛川駅を目指す。掛川駅の到着予定時間は午前九時十六分――。
 東海道五十三次の二十六番目の宿場の掛川は遠江国(とおとうみのくに)。遠江は琵琶湖(近江)にたいし、遠江(浜名湖)からそう名づけられた。奈良や京都に都があったころの地理感覚が今も残っている。
 もともと東海道は西から東に切り開かれた街道なのです。
 泉秀樹著『「東海道五十三次」おもしろ探訪』(PHP文庫)の掛川宿の頁には、掛川城と吉行淳之介文学館の写真が使われている(今回の旅行中も持ち歩いた)。
 掛川城は今川義忠が築城。山内一豊(愛妻家としても有名)が城主だったこともある城で、一豊が掛川を城郭都市に変革した。

《掛川は東海道の宿駅として重要だっただけでなく、相良(静岡県榛原郡)と信州を結ぶ塩の道の中継点でもあったことから東西南北の交通の要としての役割を担っていることを一豊はよく知っていたのである》

 山内一豊は大井川の堤防作りにも尽力している。
 地図を見ると、掛川市は大井川と天竜川の中間に位置する。昔は河川舟運が盛んな地域だった。
 大井川といえば、小池一夫原作、小島剛夕画『子連れ狼』の「怒髪之章」所収の「裸虫」をおもいだす。今風にいえば、"神回"だ。ドラマでも主人公の拝一刀(萬屋錦之介)が大井川で人足をするシーンがある。
 東海道第一の大河の大井川に橋をかけず、「川越人足」の制度を作ったのは、江戸を守るためだったという話も『子連れ狼』で知った。人足たちの仕事を保護する目的もあった。
 川渡しのさい、人足がかつぐ棒のついた台座は「蓮台」という。水の深さ、台の大きさ、担ぎ手の人数によって値段がちがう(いちばん安かったのは肩車らしい)。
 川渡し場があるところでは、勝手に泳いで渡ることは禁止されていた。
 増水で川が渡れなくなると、旅人が足止めを食らい、そのおかげで川沿いの宿場町も繁盛した。いっぽう『子連れ狼』の川渡しのシーンには、女性にたいする下衆い行為も描かれている。江戸時代を安易に美化してはいけない。

 話が脱線......じゃなくて、脱路した。
 掛川駅から吉行淳之介文学館までのバスは二時間に一本。午前九時三十分台のバスを逃すと次は十一時台までない。しかしこのときまだ自分のミスに気づいていなかった。
 掛川駅に予定通りに到着し、バス停に行くと、バスの時刻表が自分が事前に調べた時間とちがう。
「え? 午前八時五十分?」
 次のバスは午前十時五十分だ。午前九時台のバスは吉行淳之介文学館から掛川駅行きだった。いきなり痛恨のミスだ。
 バス停のある北口からもういちど駅に入り、南口の観光案内所で掛川周辺のマップ(「東海道五十三次掛川ウォーキングマップ」「城下町掛川まち歩きマップ」など)をもらい、再び北口に出て、年に三回くらいしか乗らないタクシーに乗る。二千四百五十円。この日、掛川は「掛川大祭」というお祭りの日で道に山車がたくさん出ていた。

 午前十時前に吉行淳之介文学館に到着する。宮城まり子が一九六八年に設立した社会福祉施設ねむの木学園の広大な敷地内にある。
 吉行淳之介文学館の設計は中村昌生。正面入口付近にはパウル・クレー風のタイルが三万枚敷きつめられている。想像以上に立派な文学館である。
 午前十時の開館時間になっても、文学館の中に人のいる気配がない。すこし不安になる。しばらくすると、外からスタッフの女性がやってきて入口を開けてくれた。
 吉行淳之介の蔵書コーナーがあり、メモをとっていると、文学館の窓がガタガタと音を立てた。地震か。スタッフの人に「大丈夫ですか?」と声をかけられる。あとで調べたら、震源地は愛知県東部マグニチュード五・一の地震だったようだ。
 展示されていた吉行淳之介の蔵書には、小沼丹や藤枝静男の単行本がけっこうあった。晩年、吉行淳之介が病室で読んでいた本は函入の内田百閒の『東海道刈谷驛』(新潮社、一九六〇年)だったことを知る。
 ちなみに、吉行淳之介と百閒は同郷(岡山)だ。五機七道でいえば、山陽道ですね。
 ガラスケースに入っている吉行淳之介宛の手紙の中には、尾崎一雄のハガキもあった。消印を見ると昭和四十九年十二月――単眼鏡が役に立った。
 吉行淳之介は原稿を鉛筆(3Bか4B)で書いていた。タイトルは大きな文字。『暗室』は『謎々』という題だった。
 静岡高校(旧制)時代のノートの筆記体の英語の字がものすごくきれいだ。一九四四年、高校二年に進級した四月末、吉行淳之介は授業中「歯が痛むので早退します」といって教室を出て東京に帰り、そのまま休学してしまう。学内の軍国主義の風潮に嫌気がさしたのがその理由だ。

《この強引さがあとになって丁と出るか半と出るか、という危険な賭けを試みる気分もあった》(『私の文学放浪』講談社文芸文庫)

 このとき休学しなければ、吉行淳之介は仲のよかった二人の友人といっしょに長崎医大に進んでいた可能性が高かった。長崎医大に行った友人たちは原爆で命を落とした。静岡時代の吉行淳之介はそうした岐路にいた。
 文学館にはヘンリー・ミラーの『不眠症あるいは飛び跳ねる悪魔』の限定本や『鞄の中身』や『手品師』の特装本など、はじめて見る本も何冊かあった。愛用のライター、時計も見る。
 一時間ほど滞在したが、ファンなら退屈しない。というか、バスの時間が迫っていなければ、何時間でも過ごせる。そのくらい展示品が充実している。
 吉行淳之介文学館の図録(二千円)も入手することができた。

 吉行淳之介文学館からバスに乗り、城西二丁目で降りる。東海道を通って掛川城に寄る。この日はお祭りだったこともあり、掛川城は人でいっぱいだった。猛スピードで天守閣(一九九四年に再建)にのぼり、現存する江戸の建築物である掛川城御殿を見る。
 掛川茶を一杯飲んで、さくっと城を後にする。
 掛川城の大手門から旧東海道(県道37号線)に向い、東に歩いて掛川新町七曲り(掛川の七曲り)を早足で歩く。途中、方向感覚がおかしくなったが、オイルコンパスが役に立った。

 池内紀著『ニッポン周遊記 町の見つけ方・歩き方・つくり方』(青土社、二〇一四年)所収の「道徳門と経済門 静岡県・掛川市」を読むと、掛川の中心街が急速にさびれてしまった状況が記されている。
 旧東海道と交わる駅前通り(連雀通り)は「店の並びのうちの三つに一つはシャッターが下りたぐあいで、『貸店舗』『テナント募集』の張り札」といったかんじ。池内さんは「掛川市中心市街活性化基本計画」にたいし、「どうして新幹線駅と城跡を結んだ縦軸だけが活性化の基本となっているのだろう?」と疑問をいだく。

《ことによると「遠州掛川五万石」が錯覚の元凶なのではあるまいか。たしかに城が置かれ、城下町ではあった。しかし、それ以上に掛川は東海道の重要な宿場町だった。島田・藤枝・掛川・興津・舞坂......。静岡県下の町々は、おおかたが人と物産の大動脈の拠点として発展した》

 ひとつの地域で完結した町おこしには限界がある。近年、よく議論されている「コンパクトシティ」構想もそうだ。学校や病院や商業施設を集め、その町だけで暮らせるようになっても、人の行き来の少ない町はおもしろくない。町おこしは「町と町をつなぐ」形で考える必要がある。
 もっと街道の宿場町の横のつながりがあってほしい。そんなことを考えながら、掛川宿を後にした。

 次の目的地は東海道の浜松宿である。
 旅行前に高円寺で漫画家で絵本作家の久住卓也さんと飲んでいたとき、掛川に行く話をしたら「浜松で個展をやるから寄ってよ」といわれていたのだ。そのさい、天浜線(天竜浜名湖鉄道)に乗ることをすすめられた。
 掛川駅から浜松駅まで在来線で二十六分。天浜線だと西鹿島駅で遠州鉄道に乗り換えて新浜松駅まで一時間二十分くらいかかる。だが、乗りたい。
 掛川駅十二時五十九分の電車に乗り、天竜二俣駅に十三時四十七分下車。「ふたまた周辺の見処味処」というマップを入手し、駅前のホームラン軒で中華そば(しょうゆ味)を食う。この日、最初の食事だった。
 天竜二俣駅から秋葉街道を通って西鹿島駅まで歩く。秋葉街道は浜松から信州の諏訪まで東海道と中山道をつなぐ街道で、この道も「塩の道」だった。
 街道を研究するにあたって「塩」は避けて通れない。今さらだが、天竜二俣のホームラン軒で塩ラーメンを注文しなかったことが悔やまれる。
 秋葉街道沿いには「火防(ひぶせ)の神」で知られる「秋葉大権現」が祭神の秋葉神社が秋葉山にある。火事が多かった江戸では秋葉詣をする人が多かった。
 東京の秋葉原の地名も秋葉権現信仰から来ている。
 天竜二俣駅を出て、双竜橋を渡る。二俣城にも寄りたかったが、時間がない。南のほうにある鳥羽山公園を目指す。
 この公園の近くにトンネルがあり、その先に鹿島橋がある。歩いてトンネルを通るのは避けたかったが、鳥羽山歩道トンネルという歩行者専用のトンネルがあった。駅で入手したマップには、この歩道トンネルが記されてなかった(ぜひ記載すべきだ)。
 鹿島橋は全長二百二十メートル。歩道の部分は橋の欄干が低いので高所恐怖症の人には怖いかもしれない。しかし橋を歩いて川をこえるのは街道歩きの醍醐味である。
 天竜二俣から西鹿島までの道は歩きやすい。いい道だった。歩行者が安心してのんびり歩ける道があるというのは素晴らしいことなのだ。
 最近、まるかわ著『よろずの候』(ウィングス・コミックス)という静岡県・遠州を舞台に人間と神様と妖怪が共存する"和風ファンタジー漫画"が刊行された。
 この作品にも天竜二俣界隈が描かれていて、登場人物(神様と妖怪も)は遠州弁を喋る。毎回、楽しみに読んでいる。

 遠州鉄道の西鹿島駅から第一通り駅に行く。そこから姫街道を通って久住卓也さんの個展が開催中の絵本の店キルヤへ。
 すこし前まで台風の影響で天浜線の一部区間が運行していなかったことを教えてもらう。
 姫街道は東海道の脇往還で浜名湖を北に迂回する道である。姫街道は、新居の関所(静岡県湖西市)を避けるため説(当時の関所は女性にたいする取り調べが厳しかった説、浜名湖を船で渡るのを避けるため説などがある。
 杉浦明平著『東海道五十三次抄』の「東海道の名残り」にも浜松から浜名湖の北岸を通って御油に出る姫街道の話が出てくる。
 浜名湖今切口から舞坂宿に向かう「今切の渡し」は太平洋が荒れると舟がゆれ、船酔が続出した。
 そのため大名家、公卿の女性は姫街道を通ることが多かった。また輿入れのために通過する場合、「今切の渡し」の「今切」の名を嫌ったという説もある。この説は、武田泰淳著『新・東海道五十三次』(中公文庫)で読んだ。
 しかし理由はそれだけではない。
 新居関所資料館が作った『特別展 新居関所・新居宿の変遷Ⅰ』(二〇〇七年)、『特別展 新居関所・新居宿の変遷Ⅱ』(二〇〇八年)によると、新居宿は、延宝八年(一六八〇)、元禄十二年(一六九九)に暴風雨や高潮の大きな被害にあった。それで関所と宿場の中心地を西北に移転した。さらに宝永四年(一七〇七)に大地震が起きる。

《宝永地震は新居宿周辺に大きな被害をもたらしたが、一方で今切渡海が途絶したことで多くの旅行者が東海道を避け、本坂通へ迂回する事態となった》

 この本坂通(本坂道)こそが、姫街道なのである。
 宮負貞夫雄著『安政東海大地震見聞録 地震道中記』(巌松堂出版)には、掛川宿も一八五四年の安政地震で「残らす潰れて出火となり、焼原となる」と記されている。
 この地震で掛川城は崩落、秋葉街道も大きな被害が出た。掛川宿の隣の袋井宿も焼失した。
 東海道は台風、地震、火山の噴火などの災害で何度となくルートが変わっている。今歩いている道がいつまでもあるとは限らない。
 浜松駅から浜松城に至る「出世街道」も通った。「出世大名家康くん」と「出世法師直虎ちゃん」というキャラクターをあちこちで見かけた。
 十六時二十分、浜松駅からJR東海道線に乗り、十七時五十八分に名古屋駅に到着。名古屋駅の地下街エスカで天むすと缶コーヒーを買い、十八時三十五分の快速みえ(関西本線・伊勢鉄道)に乗る。伊勢鉄道の鈴鹿駅には十九時十七分着の予定である。あっという間だ。郷里の家に帰ったら、天むすをつまみに酒を飲んで風呂入って寝よう。
 そうおもっていたのに、なぜか二十時すぎにまだJR四日市駅のホームにいた。何が起こったのか。

(......続く)